ぬものが隠れているようでもある。
 しかし彼は、淋しい人である。華々《はなばな》しい、浮々した都会の空気は、とうていこの北国生まれの空想家の心臓を乱調子にせずに置くまいと思われる。……その中に秋も十月の末ごろになると、風が恐ろしく荒くなって、空が今晴れたかと思うと、見る間に一面灰色になってしまう。その頃がくると荻原は気でもちがわねばいいがと思うほど、その顔が曇って沈んで、そしてじれて、傍《そば》からはとても慰めることができないほどに、その胸の中の思いに弄ばれている。
 いつも淋しい顔をして、ぽつねんと一方を見つめて、坐っているか、さもなくば、朝も昼もなく、布団をひっかぶって、ぐうぐうねている。そして、夕方になると、急に目をさまして、ぶらりとどこかに出かけて行く。あまりいつもいつも眠っているから、ゆり起こして、
「いくらねたらいいんだ?」
 と聞くと、さもねむそうな眼をあげて、余計なことをするっていう顔付きをしながら、
「ああねむい!」
と言って大きな吐息をつく。そして一向学校にも行く様子がないから、なぜかと聞くと、学校の方は今年は一年遊ぶのだといって平気な顔をしている。
 ある時に、用があってその室に行って見ると、もう日が落ちてしまったのに、室の中はまっくらだから、いないのかと思って開けた唐紙を閉めようとすると、机のわきに黒いものが、うごめくと、突然、
「私はここに、いたんですよ。」
 と声をかけた。
「じゃ燈火《あかり》でもつけ給へ、どうかしたのかい。」
 と言いながら入って行くと、暗の中に目がきらっと輝いたようで、荻原は太い急《せ》わしい呼吸をしている。
 ランプがパッと着くと、荻原は今まで、柱に倚りかかっていたらしく、その顔には名状しがたいような、哀愁を含ませている。見ると涙ぐんでいるではないか。
「どうかしたのかい?」
「ああ、国のことを思ってるうちに、すっかり夜になってしまった。」と獨語《ひとりごと》のように言う。
 と思うと、左の手に何か持って、それを隠そうとする。
「何だい! それは。」私はいち早く見つけて、つき込むと、仕方なさそうに、出して見せる。尺八だ。
「君はそれを吹くのかい。」
「吹くと言うほどじゃないけれど、国にいる時分に少し習ったから……」
「じゃ、それを吹いて故郷を思っていたと言うわけだね。」少し茶かしてかかると、荻原はからだの奥から沁み出すような声をして、
「いや、私はたまらなくなるから吹くのです。しかし吹くとなおたまらなくなってしまう。故郷《くに》の景色が目に見えるようで……」と言って、堅く口をつぐんでしまった。
「そんなことをこの薄暗い室の中で思っているとなおひどくなるから、外に出て見よう。そして気でもまぎらし給え。」
 と言うと、荻原はむっつりして、やはり沈んでいたが、私が促すのでいきおいのなさそうに立ち上ってそれから神楽坂《かぐらざか》の通りの方に出た。
 曇って、雲が低く、空は真暗だ。町の中をときどき、砂を巻き上げて、風が吹いて通る。しかし、その位なことで賑やかな神楽坂の通りは、燈火《あかり》一つ少くなりはしない。夕方帰りの人や、買物の人や、まだひどく寒くはないから気楽な散歩の人もちらほら見受けられる。
 両側の店の燈火はまだまだ、淋しいなどという心持ちは少しもない。
 近所の寄席では、楽隊が上調子な譜《ふ》をやっている。……私達はそこの角までくると、なんと思ったか、荻原は往来の角に突っ立って、黙って町の賑やかさを眺めている。私は横から、
「おい!」
 と声を掛けたが、荻原は返事もしないで、やはり突っ立っている。
 それを見ると、私はひどく感に打たれた。丈の高い、茫とした、この賑やかな、はしゃいだ調子とは、まるで心臓の鼓動が調和しない男が、悲しそうな顔、むしゃくしゃ[#「むしゃくしゃ」に傍点]した顔をして傍観している。
 傍観者! 不調和!――この言葉だけでも悲しむべき運命の暗示がある。

     三

 その年の十二月半ばころ、私はやっと道が開けてA新聞の記者に採用された。それでいろいろな便宜上、もう一つは、もうドライな下宿生活には、心底、おぞげをふるって、いやになったので、麹町の方に小さな一軒を借りることにして、引き移った。
 すると、荻原は始終私の家へ入り浸りに来ていた。ところが或る晩、新聞社から帰って見ると、相変らず、留守の婆やをつかまえて、話し込んでいるから、
「今日も相変らずだね。」
 と言うと、
「や、急がしいのですか。」
 と言って臆病らしい目付きをする。
「いそがしいさ、君も働かなくっちゃいけないよ。」私は何気なく言ったのだが、荻原は何かひどく、気に触わったと見えて、急に帰ってしまった。
 それからぱったり来なくなった。こっちも仕事に逐《お》われて、いつの間にか一と月
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