月見草
水野葉舟
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)轍《わだち》の
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「やまごま」に傍点]
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馬車が深い渓流に沿った懸崖の上を走っていた。はるかの底の方に水の音がする。崖の地肌には雪に、灰色の曇った空がうつって、どことなく薄黒い。疎林がその崖に死んだように立っている。
その中に、馬車の轍《わだち》の跡だけが、泥に染《にじ》んでいる。私はいま、東北の或る田舎を旅をしているのだが、この地方では、三月の半ば過ぎていると言うのに、まだ空は雪催《ゆきもよ》いだ。
私は馬車の窓に倚りかかって、この目馴《めな》れない景色を見いっていた。道には人気も無かった。
馬車の中でも、もう皆くたびれていると見えて、誰も口を噤《つぐ》んでいた。ただ馬車が、危《あやう》い道を揺り上げ、揺り上げ駆けていた。
私は目も疲れた。――からだは今朝から長いあいだ、窮屈な態《ざま》をしているので、方々が痛い。――その疲れた目を、力なく後に残り続いて行く道の上に落とした。見るとなしに道が目にはいっていた。
すると、その道の両側に、ごまの実そっくりな形をした、実がはじけてついている草の枯れたのが、つづいて立っているのを見た。「やまごま[#「やまごま」に傍点]」、そんな名の草のあることを聞いたように覚えている、この珍らしい雪国に来たのだ。或いはその草かもしれぬと、私は故もなく思った。
崖の道は山にはいった。水の流れも聞こえなくなった。そしてとうとう雪が降り出した。
それから二時間ばかりして、もう日が暮れかかった。馬車の中はいよいよ無聊だ。中の人のあいだで又思い出したようにそろそろ話がはじまった。
その中に私もはいった。やがて、向い合って坐っていた老人に、「今来た道に、ごまのような草がありましたが、何でしょう。山ごまと言うのではありませんかね。」
「山ごま? そんなものは知りませんが、何だろな、ごまのような、草って……」
「種がたくさんついたまま、枯れていたのです。」
「あ、あれは月見草。」
「月見草、そうですか。」
私はそれでこの、無聊なうちに、せっかく踊って来た好奇心も、何もすっかり消えてしまった。また、手のやり場もない、無聊を感じながら馬車の垂幕をおろしてしまった。
しばらくすると、老人が
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