こういった。
「あの草はつい明治二十三年の洪水までここらになかったのです。」
「………」
「この奥に、早池峯山《はやちねさん》という山が、その地図にもありましょう?」と、私の手に持っていた地図に目をやった。私はそれに連れて、老人の顔を見ていた目を地図の上に落とした。
「はやちね。この早池峯《はやいけみね》と書いてある山ですね。ええ。」と私は老人に話の先きを促がした。
「いいえ、その早池峯の裾の平にね、蜜蜂を飼うと言って種を播いたのです。ところが二十三年の洪水の時に、そこがすっかり流れてしまった。すると、この猿《さる》ヶ石《いし》の河岸一帯に、どうして広がったものか、月見草が咲き出したのです。それから年々殖えて行く。」
「おもしろい話ですね。」と私は心底《しんそこ》から言った。
 そして、今まで自分の目に見えていた、草の枯れた姿を思い浮かべて、生きた人の運命を思うように、その草の、亡びなかったのを祝した。



底本:「遠野へ」葉舟会
   1987(昭和62)年4月25日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄
校正:今井忠夫
2004年2月19日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全2ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
水野 葉舟 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング