れたように重い。顔がさぞ黄ばんでいることだろう。
起き上ろうとすると、S君が待ちかねたように、
「君、馬車が駄目だそうだ。」と言う。
「駄目とは?」私は起き返ったまま、なんとも見当がつかぬので、下からS君の顔を見上げた。昨夜の酒の酔いが頭の奥にまだ残っているようで、身体がふらふらする。
「今ね、宿のものが来て、今日は又どうしたのか、客が非常に多いので、普通の二台には乗りきれないそうだ。」
「で、どうするの?」私はからだが倦《ものう》くってたまらぬので、どうでもなれとおもって言った。
「僕は歩くから、君は明日の朝まで泊っておいでなさい。」
「なぜ? そしてH町で待ってるって言うのかい。」
「ええ。」
「なぜ? それはいやじゃないか、君も泊りたまえ。」
「僕はここから一刻も早く落ちたい。一刻も早く家から離れたところに行きたい。」と言って悲しい目をして私をじっと見た。私はS君の心持ちを察することが出来た。S君は東京にS君だけとしての希望を持っている。そして昨日までいた家には、家としての仕事も、一人で寂しく残っている、母もある。S君は東京にあるその希望を追うために、自分の家や、母の有様を見ると、脊に負い切れぬような苦痛を感ずる。……今、S君はこの苦痛に追われているのだ。
「じゃ、一つ、もいちど聞こう。」と言って手を拍った。宿の者に聞くと非常に人が多いので、今日は昨夜から申込まれた人だけしか乗せぬと言う。私はそれに、もいちど二人だけ乗せてくれるように尽力してくれと言って頼んだ。すると、S君が突然、
「君一人乗りたまえ。私は歩きます。」
「なぜ?」
「その方が都合がいい。私は馬車が嫌いだから、歩いた方がいいのです。車が行けば乗るけれども、非常に高いそうだから。」と言う。
それで、私一人乗ることに尽力してもらった。しばらくすると、
「それではお一人だけです。昨晩、私共にお泊りでした、判事さんのお連れっていう事にして、やっと承知させました。」と、番頭はしきりに手柄顔に言う。
で、いよいよここを発つこととなった。
九時頃に馬車が来た、というので二階を降りた。宿屋の門に出ていると、東の方からI君がこようとするところだった。M君もちょうど来た。そのほかにも二人ばかりの人が来た。私はこの人達に、心残りがするようで、なにか互いに言うべきことがたくさんあるように思った。が、なんにも言わずに、ただ笑っていた。
「東京からは手紙を如何《どう》ぞ。」と、向い合って立ちながら、I君が言った。
「え。」私はただ笑っていたくらいで、言葉がでなかった。
S君は草鞋ばき、脚絆《きゃはん》で、着物の尻を引きからげてM君に並んで立っている。そこへ馬車が来た。私はこの人達に会釈して、天井に頭がつかえそうな馬車のなかに乗り込んだ。そして窓に下ろしてある垂幕を上げて、外に立っている人の前に顔を出した。そこへ家の中から、色の黒い、頬骨の高い、髭の生えた三十七八の人が出て来た。それにつづいて、頭の禿げた村の役人らしいのが、渋紙に包んだ軸物を持って出て来た。髭の人は、馬車に乗ると、その男にちょっと会釈してそれを受取った。そして私と向い合って坐った。
そとから入口の戸を閉めた。もう出るに間がないので、I君たちは一歩立ち寄って、また話しをはじめた。ところに、
「出んじょ!」と、馭者台から声をかける。下から宿屋の番頭が「よしきた!」と答えた。私は窓から首を出したまま、そこに立っている人の顔をいちいち見て、
「さようなら! 諸君お丈夫で。」と言うと、
「さようなら!」と三四人の声で言う。
と、からだががたっとのめり[#「のめり」に傍点]かけて馬車がガラガラ動き出した。立っている人達は、それについて四五歩歩いて来た。が、馬車は急に駆け出した。
「さようなら!」とまた両方から言った。
馬車は半町も行くと北にまがった。送ってくれた人達も見えなくなった。私は垂幕から顔を入れて、座をきちんとした。ちょっとその判事さんと顔を見合せたが、互いになんとも言わずに、よそを向き合った。私は思いついて自分のうしろの垂幕を絞り上げた。
馬車は北に向いた一直線の、長い町を走っている。庇《ひさし》の長く突き出た、薄黒い町の屋根は、永い雪解けのあとで、まだ乾き切らぬように、青黒く湿っている。その上に、いま、薄い日がさしている。寒そうな、くすんだ朝だ、と思って見ていると、ずっとうしろの曲り角を、ひょっくりとS君がまがった。私は思わず帽子を振った。
S君も帽子を振った。と、不意に馬車が止った。
「一人か?」町の方を向いて、馭者が言う。
「二人だ。」と下から言う。そこへ二十四五の筒袖の外套を着ている、雪帽子をかぶった男が二人はいって来た。私達にちょっと印ばかりに頭を下げて見せると、向い合って坐った。
馬車は荷物でも積むと見えて動かない。私は仕方なしに別れるときに送られたI君、M君の写真を、今更らしく出して見た。と、窓の外から肩をたたく。振り返るといつの間にかS君が立っていて、「これをおあがりなさい。」と、鶏卵《たまご》を一つ出してくれる。「いらない。僕はたくさん。」と言うと、「では、今夜H町で逢いましょう。」と言って、とっとっと歩いて行った。私は今日一日、この狭い箱のような馬車で揺られて十三里の道を行くのだと思って見ると、今からうんざりする。頭には弾力がなくって、ぼっとなっている。
馬車がまた動き出した。
町をはずれると川に沿って走った。この道はH町までの間は広い野に出るかと思うと、山に沿った渓の上を行く。
川を離れると、広い畑の中を走る。雪がむら消えをしている。畑には林檎が植えてあるが、雪の中に、黒い枯木のようになってつづいている。この周囲には何方《どちら》を見てもけわしい高い山がつづいて、この広い野を取りかこんでいる。そしてところどころに家が一軒二軒見えるほかには、雪が白々と日に照らされていて、人の影も疎《まばら》である。
その中を馬車が二台、揺り上げ、揺り下げして走って行くのである。
私はS君の姿がこの野の中に見え出してくるのを、ただしきりに待って、後の方ばかり気にしていた。
そのうちに、S村に着いた。馬車が止ると、二人の若い男が飛び下りてそとに出た。ここはT町を離るること一里半、第一の宿である。私がくる時には吹雪の中で、日がとっぷり暮れてからここに着いた。
私は所在のない、ものうい心持ちがしながら馬車の動くのを待った。
五
馬車の垂幕の下から見ると、私の乗って来たあとは、平らな林檎畑のあいだに、広い道が一条ついている。その道には人の影も見えない、両側の畑にはまだ雪が解けていない。そのあいだに黒い道がはるかに続いているのだ。
いま昼の時に来て見ると、この茶店はその道のかたわらに二三軒、ぽつりと家が並んでいるだけで、空も、道も灰色をしている。家も古びてよごれている。私はそれを見て自分の胸の中に映っていた忘れられない記憶を拭き消されたように思った。――くる時にこの村で感じた、不思議な、自然の生きた大きい目で睨みつけられたような記憶――吹雪でこの野は暗く、その奥から、ひそかに深い吐息でもするように、灯が見えていた。馬車を出て雪のなかを道に立って見ると、闇の奥がはかり知られないような気がした。そしてその暗い中に、近くの山の黒い形がぱっと見えた。私はその闇に彩《いろど》られて見る景色を見て、恐ろしさを感じた。が、今見ると平凡な田舎の茶店だ。
で、私は外に出ようとも思わずに、ただ馬車の出るのを待った。馬車は悠々として二十分、それより以上も動かなんだ。私は倦んで来た。と同時に、睡眠の不足のために頭がふらふらし出した。で、思いついて、幕を上げると茶店のものを呼んで煙草を持ってこさせた。さて金を払おうとすると、ポッケットの中を捜したが、金入れが見当らない。私はあわてて覚えず、
「オヤ?」と声を出した。いそいで方々のポッケットを捜したが手にさわらなかった。私は心で今朝までいた宿屋の二階の一室を思い浮べて、自分の粗忽《そこつ》を怒った。覚えず、
「チョッ!」と、高く舌打ちした。
と、いままで、向側から私の様子をじっと見守るようにしていた判事さんが、重っくるしい調子で、
「何かお忘れでしたか?」と言った。私は、
「ええ。」と微かに苦笑したが、「金入れを……」と言うと、
「宿屋にですか、昨晩の宿屋でしょう、それならば、この先きのMまで行って、あすこから電話でT町まで、言ってやったらいいでしょう。」と言う。
「電話?」私はこの田舎には思いがけないことなので、問い返した。
「ええ、Mに行けば警察署の電話がありますから、それを借りたらばいいでしょう。」
「あ、そうですか。」と言ったが、私は落ち着かなかった。も一度T町に引き返そうか、とも思った。からだがだるいので、これから引き返して、半日でもいいから、のびのびと眠りたいとも思った。それに、金を持たずに一晩でも全く知らぬ土地に泊るのが、心細くも思われた。で、なんとなく決めかねて、心で迷いながら立つと、ずるっと上着の下からパンツの上に重いものがずり落ちた。私ははっとして又あわてた。「ああ矢張りあった」と思ったが同時に、自分のあわてた姿がどうにもきまりが悪く感じられた。私は判事さんの顔を見て苦笑しながら、なかば独語のように、
「ありました。」と言った。
で、煙草の代を払うと、唾のぬめった口に熱い煙を強く吸い込んだ。
やがて、最前出た二人の若い者の一人はあわただしく飛び込んで来た。手に松蘿《さるおがせ》のついた小枝を持っていた。が、はいると、それを私達の二人のあいだにさし出して、
「これはなんでしょう?」と問うた。判事さんが何か言うかと思って、私はしばらく黙っていたが、判事さんは黙っているので、やがて、
「松蘿と言うものです。」と、心持ち首を傾けてそれを見入っていたが、「何ですねこれは。」
「やはり苔の種類でしょう。深山《しんざん》でなければないのだそうです。根がないでしょう? 霧の湿気で生きてるんだそうです。」
「へえ、私はS峠でひょっと上を見ると、妙なものがあるから、その樹にのぼって取って来たのですがね。」と、一心にその松蘿のついた小枝を見ている。私も心持ちからだを寄せて、それを見た。
判事さんも首を出してそれを見た。
そこへ、も一人の若い男が飛び込んで来た。それを見て、「分った」と、松蘿を持った男が言った。
「分ったか、なんだ?」
「さるおがせって言うだと。」
「さるおがせ。はじめて聞いた。それを書いておけ。」
「深山でなければないのだそうだ。」と言いながら、その男は外套のポッケットから手帳を出して、
「猿尾……と、がせと言う字は。」と私を振り返った。
「いいえ、そう書くのじゃないんです。私もどんな字だったか……たしかにそれの字はあるのだが、忘れてしまったが。まあ仮名で書いておいて下さい。」と、私は言った。
「さるおがせですね。」と口の中で言いながら鉛筆でその名を書いた。
ところに、また一人インバネスを着た三十五六の男がずっと憚《はばか》り気もなく入って来た。赭黒《あかぐろ》い、髭のあとの多い、目の切れた男で、酒を飲んでいた。はいってくると、私の向ったそばにいる若い男を押しやるように、割り込んだ。
「今のは分ったか?」と、その男に聞いた。
「さるおがせって言うのだそうです。深山に生える苔の一種だとか……」
「ふむ、めずらしいもんじゃな。」
と、言うところに、顔の滑らかな青白い中年の男がはいって来た。白い甲斐絹の襟巻を首に巻きつけていた。その男がはいってくるとイムバネスと、判事さんとの間にいた男は、私のそばに来た。これでこの小さい箱のような馬車の中はぎちぎちになってしまった。押しつけられているように、自由には身動きもできない。
馭者が馭者台に乗って、(この馬車には馭者が一人いるっきりだ)鞭をしごいた。
「出すかね。」と、イムバネスが我物顔《わがものがお》に声をかけた。馭者はそれには答えずに、
「出んじょ!」とあとの馬車
前へ
次へ
全3ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
水野 葉舟 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング