入っていたこの室を出て行くと云うことに、微かながら悲哀の情が起こるのを覚えた。
私とS君と阿母さんとで、かりそめに向い合って坐った。私はS君の阿母さんの顔をしげしげと見た。日に焼けた皮膚には深い皺がよっている。単純な子供のような目には、ただ情愛だけが表われていた。この山に生えている樹、そのままのような人だ。その年をとった顔の皺のあいだには、私達が立って行く跡を寂しく思う情が表われていた。
私はこの短い、そわそわした出発前の十数分のあいだに、沈み切った静寂の感に打たれた。S君の阿母さんの寂しい顔のバックには、一種の運命が横たわっている。S君は今朝からその表情を正直に感じているらしく、顔を曇らしておろおろしている。若い霊魂は愛されているたった一人の母親《おんなおや》の感情の犠牲になることさえできないのだ。新しく生きようとする心の要求は、こんな犠牲をさえ払っている。
「如何《どう》かなもし。」しばらくしてS君の阿母さんは私を見て口を切った。沈黙は破れた。
「ハ……」
「Sを如何《どう》かなもし。」
「ハ」
「いろいろお世話になりやんすから。」
「いえ、お互様です。」と、私はS君の顔を見て
前へ
次へ
全27ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
水野 葉舟 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング