忘れてしまったが。まあ仮名で書いておいて下さい。」と、私は言った。
「さるおがせですね。」と口の中で言いながら鉛筆でその名を書いた。
ところに、また一人インバネスを着た三十五六の男がずっと憚《はばか》り気もなく入って来た。赭黒《あかぐろ》い、髭のあとの多い、目の切れた男で、酒を飲んでいた。はいってくると、私の向ったそばにいる若い男を押しやるように、割り込んだ。
「今のは分ったか?」と、その男に聞いた。
「さるおがせって言うのだそうです。深山に生える苔の一種だとか……」
「ふむ、めずらしいもんじゃな。」
と、言うところに、顔の滑らかな青白い中年の男がはいって来た。白い甲斐絹の襟巻を首に巻きつけていた。その男がはいってくるとイムバネスと、判事さんとの間にいた男は、私のそばに来た。これでこの小さい箱のような馬車の中はぎちぎちになってしまった。押しつけられているように、自由には身動きもできない。
馭者が馭者台に乗って、(この馬車には馭者が一人いるっきりだ)鞭をしごいた。
「出すかね。」と、イムバネスが我物顔《わがものがお》に声をかけた。馭者はそれには答えずに、
「出んじょ!」とあとの馬車
前へ
次へ
全27ページ中20ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
水野 葉舟 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング