わずに、ただ笑っていた。
「東京からは手紙を如何《どう》ぞ。」と、向い合って立ちながら、I君が言った。
「え。」私はただ笑っていたくらいで、言葉がでなかった。
S君は草鞋ばき、脚絆《きゃはん》で、着物の尻を引きからげてM君に並んで立っている。そこへ馬車が来た。私はこの人達に会釈して、天井に頭がつかえそうな馬車のなかに乗り込んだ。そして窓に下ろしてある垂幕を上げて、外に立っている人の前に顔を出した。そこへ家の中から、色の黒い、頬骨の高い、髭の生えた三十七八の人が出て来た。それにつづいて、頭の禿げた村の役人らしいのが、渋紙に包んだ軸物を持って出て来た。髭の人は、馬車に乗ると、その男にちょっと会釈してそれを受取った。そして私と向い合って坐った。
そとから入口の戸を閉めた。もう出るに間がないので、I君たちは一歩立ち寄って、また話しをはじめた。ところに、
「出んじょ!」と、馭者台から声をかける。下から宿屋の番頭が「よしきた!」と答えた。私は窓から首を出したまま、そこに立っている人の顔をいちいち見て、
「さようなら! 諸君お丈夫で。」と言うと、
「さようなら!」と三四人の声で言う。
と、からだががたっとのめり[#「のめり」に傍点]かけて馬車がガラガラ動き出した。立っている人達は、それについて四五歩歩いて来た。が、馬車は急に駆け出した。
「さようなら!」とまた両方から言った。
馬車は半町も行くと北にまがった。送ってくれた人達も見えなくなった。私は垂幕から顔を入れて、座をきちんとした。ちょっとその判事さんと顔を見合せたが、互いになんとも言わずに、よそを向き合った。私は思いついて自分のうしろの垂幕を絞り上げた。
馬車は北に向いた一直線の、長い町を走っている。庇《ひさし》の長く突き出た、薄黒い町の屋根は、永い雪解けのあとで、まだ乾き切らぬように、青黒く湿っている。その上に、いま、薄い日がさしている。寒そうな、くすんだ朝だ、と思って見ていると、ずっとうしろの曲り角を、ひょっくりとS君がまがった。私は思わず帽子を振った。
S君も帽子を振った。と、不意に馬車が止った。
「一人か?」町の方を向いて、馭者が言う。
「二人だ。」と下から言う。そこへ二十四五の筒袖の外套を着ている、雪帽子をかぶった男が二人はいって来た。私達にちょっと印ばかりに頭を下げて見せると、向い合って坐った。
馬車は荷物でも積むと見えて動かない。私は仕方なしに別れるときに送られたI君、M君の写真を、今更らしく出して見た。と、窓の外から肩をたたく。振り返るといつの間にかS君が立っていて、「これをおあがりなさい。」と、鶏卵《たまご》を一つ出してくれる。「いらない。僕はたくさん。」と言うと、「では、今夜H町で逢いましょう。」と言って、とっとっと歩いて行った。私は今日一日、この狭い箱のような馬車で揺られて十三里の道を行くのだと思って見ると、今からうんざりする。頭には弾力がなくって、ぼっとなっている。
馬車がまた動き出した。
町をはずれると川に沿って走った。この道はH町までの間は広い野に出るかと思うと、山に沿った渓の上を行く。
川を離れると、広い畑の中を走る。雪がむら消えをしている。畑には林檎が植えてあるが、雪の中に、黒い枯木のようになってつづいている。この周囲には何方《どちら》を見てもけわしい高い山がつづいて、この広い野を取りかこんでいる。そしてところどころに家が一軒二軒見えるほかには、雪が白々と日に照らされていて、人の影も疎《まばら》である。
その中を馬車が二台、揺り上げ、揺り下げして走って行くのである。
私はS君の姿がこの野の中に見え出してくるのを、ただしきりに待って、後の方ばかり気にしていた。
そのうちに、S村に着いた。馬車が止ると、二人の若い男が飛び下りてそとに出た。ここはT町を離るること一里半、第一の宿である。私がくる時には吹雪の中で、日がとっぷり暮れてからここに着いた。
私は所在のない、ものうい心持ちがしながら馬車の動くのを待った。
五
馬車の垂幕の下から見ると、私の乗って来たあとは、平らな林檎畑のあいだに、広い道が一条ついている。その道には人の影も見えない、両側の畑にはまだ雪が解けていない。そのあいだに黒い道がはるかに続いているのだ。
いま昼の時に来て見ると、この茶店はその道のかたわらに二三軒、ぽつりと家が並んでいるだけで、空も、道も灰色をしている。家も古びてよごれている。私はそれを見て自分の胸の中に映っていた忘れられない記憶を拭き消されたように思った。――くる時にこの村で感じた、不思議な、自然の生きた大きい目で睨みつけられたような記憶――吹雪でこの野は暗く、その奥から、ひそかに深い吐息でもするように、灯が見えていた。馬車を出て雪のなかを
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