道に立って見ると、闇の奥がはかり知られないような気がした。そしてその暗い中に、近くの山の黒い形がぱっと見えた。私はその闇に彩《いろど》られて見る景色を見て、恐ろしさを感じた。が、今見ると平凡な田舎の茶店だ。
 で、私は外に出ようとも思わずに、ただ馬車の出るのを待った。馬車は悠々として二十分、それより以上も動かなんだ。私は倦んで来た。と同時に、睡眠の不足のために頭がふらふらし出した。で、思いついて、幕を上げると茶店のものを呼んで煙草を持ってこさせた。さて金を払おうとすると、ポッケットの中を捜したが、金入れが見当らない。私はあわてて覚えず、
「オヤ?」と声を出した。いそいで方々のポッケットを捜したが手にさわらなかった。私は心で今朝までいた宿屋の二階の一室を思い浮べて、自分の粗忽《そこつ》を怒った。覚えず、
「チョッ!」と、高く舌打ちした。
 と、いままで、向側から私の様子をじっと見守るようにしていた判事さんが、重っくるしい調子で、
「何かお忘れでしたか?」と言った。私は、
「ええ。」と微かに苦笑したが、「金入れを……」と言うと、
「宿屋にですか、昨晩の宿屋でしょう、それならば、この先きのMまで行って、あすこから電話でT町まで、言ってやったらいいでしょう。」と言う。
「電話?」私はこの田舎には思いがけないことなので、問い返した。
「ええ、Mに行けば警察署の電話がありますから、それを借りたらばいいでしょう。」
「あ、そうですか。」と言ったが、私は落ち着かなかった。も一度T町に引き返そうか、とも思った。からだがだるいので、これから引き返して、半日でもいいから、のびのびと眠りたいとも思った。それに、金を持たずに一晩でも全く知らぬ土地に泊るのが、心細くも思われた。で、なんとなく決めかねて、心で迷いながら立つと、ずるっと上着の下からパンツの上に重いものがずり落ちた。私ははっとして又あわてた。「ああ矢張りあった」と思ったが同時に、自分のあわてた姿がどうにもきまりが悪く感じられた。私は判事さんの顔を見て苦笑しながら、なかば独語のように、
「ありました。」と言った。
 で、煙草の代を払うと、唾のぬめった口に熱い煙を強く吸い込んだ。
 やがて、最前出た二人の若い者の一人はあわただしく飛び込んで来た。手に松蘿《さるおがせ》のついた小枝を持っていた。が、はいると、それを私達の二人のあいだにさし出して、
「これはなんでしょう?」と問うた。判事さんが何か言うかと思って、私はしばらく黙っていたが、判事さんは黙っているので、やがて、
「松蘿と言うものです。」と、心持ち首を傾けてそれを見入っていたが、「何ですねこれは。」
「やはり苔の種類でしょう。深山《しんざん》でなければないのだそうです。根がないでしょう? 霧の湿気で生きてるんだそうです。」
「へえ、私はS峠でひょっと上を見ると、妙なものがあるから、その樹にのぼって取って来たのですがね。」と、一心にその松蘿のついた小枝を見ている。私も心持ちからだを寄せて、それを見た。
 判事さんも首を出してそれを見た。
 そこへ、も一人の若い男が飛び込んで来た。それを見て、「分った」と、松蘿を持った男が言った。
「分ったか、なんだ?」
「さるおがせって言うだと。」
「さるおがせ。はじめて聞いた。それを書いておけ。」
「深山でなければないのだそうだ。」と言いながら、その男は外套のポッケットから手帳を出して、
「猿尾……と、がせと言う字は。」と私を振り返った。
「いいえ、そう書くのじゃないんです。私もどんな字だったか……たしかにそれの字はあるのだが、忘れてしまったが。まあ仮名で書いておいて下さい。」と、私は言った。
「さるおがせですね。」と口の中で言いながら鉛筆でその名を書いた。
 ところに、また一人インバネスを着た三十五六の男がずっと憚《はばか》り気もなく入って来た。赭黒《あかぐろ》い、髭のあとの多い、目の切れた男で、酒を飲んでいた。はいってくると、私の向ったそばにいる若い男を押しやるように、割り込んだ。
「今のは分ったか?」と、その男に聞いた。
「さるおがせって言うのだそうです。深山に生える苔の一種だとか……」
「ふむ、めずらしいもんじゃな。」
 と、言うところに、顔の滑らかな青白い中年の男がはいって来た。白い甲斐絹の襟巻を首に巻きつけていた。その男がはいってくるとイムバネスと、判事さんとの間にいた男は、私のそばに来た。これでこの小さい箱のような馬車の中はぎちぎちになってしまった。押しつけられているように、自由には身動きもできない。
 馭者が馭者台に乗って、(この馬車には馭者が一人いるっきりだ)鞭をしごいた。
「出すかね。」と、イムバネスが我物顔《わがものがお》に声をかけた。馭者はそれには答えずに、
「出んじょ!」とあとの馬車
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