すると、気も取りもどされて来た。仕残してあった仕事に急に手をつけだした。そして二人ともなんとなしに、東京のはなやかな夜や、情を含んだはでな女の言葉を懐しく思い出した。
 都会の賑やかさが、暖かく、明るく、媚びられるように、胸に浮かぶ。

     二

 三月三十日――荷造りをしているうちにひるごろになった。永いこと、床の間の隅に置いてあったカバンの一つには、又一杯に手廻りのものが詰められた。一つの方には、東京への土産にと言って、S君の家でとれた胡桃《くるみ》を風呂敷に包んでどっさり入れた。さげると穀がすれて堅いカラカラいう音がする。
 で、改めて坐った。天井の高い、薄暗い、広い寺の堂のような室のなかを、私は心残りがするように見廻わした。隣りの室とのあいだの障子が開いていた。いろいろのものが、積み込んである、田舎家の住居が見える。燻《くす》ぶった、黒い暗い室の奥の方に、爐に赤く火の燃えるのが見える。私はこの爐の辺で一生を送る人、送った人の身の上を思った。
 そこへ、S君の阿母《おっか》さんが新しく茶を入れて持ってこられた。私はもうそわついた心がすっかり落ちついて、かえって一と月も入っていたこの室を出て行くと云うことに、微かながら悲哀の情が起こるのを覚えた。
 私とS君と阿母さんとで、かりそめに向い合って坐った。私はS君の阿母さんの顔をしげしげと見た。日に焼けた皮膚には深い皺がよっている。単純な子供のような目には、ただ情愛だけが表われていた。この山に生えている樹、そのままのような人だ。その年をとった顔の皺のあいだには、私達が立って行く跡を寂しく思う情が表われていた。
 私はこの短い、そわそわした出発前の十数分のあいだに、沈み切った静寂の感に打たれた。S君の阿母さんの寂しい顔のバックには、一種の運命が横たわっている。S君は今朝からその表情を正直に感じているらしく、顔を曇らしておろおろしている。若い霊魂は愛されているたった一人の母親《おんなおや》の感情の犠牲になることさえできないのだ。新しく生きようとする心の要求は、こんな犠牲をさえ払っている。
「如何《どう》かなもし。」しばらくしてS君の阿母さんは私を見て口を切った。沈黙は破れた。
「ハ……」
「Sを如何《どう》かなもし。」
「ハ」
「いろいろお世話になりやんすから。」
「いえ、お互様です。」と、私はS君の顔を見て
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