来た当座《とうざ》は、闇の中でぱっとものが光ったように、S君の心持ちも一時生々した。しかし、それもしるしばかりで、次では私の心まで、この陰鬱な空気が沁み込んでしまった。
この頃は二人とも、よく欠伸《あくび》をした。大きな薄暗い室の中で、炬燵にあたりながら、張りのない目付きをして、日を送った。私にはS君が気にかけて説明してくれる、このへんの村の生活や、雪に閉じられている中の面白い遊びなどが、すっかり予期にはずれてすべて少しも興味が起こらなかった。その心のだるさに伴れて初めから目的にして来たことにまでも、はきはきと気がすすまなかった。
そうしているうちに、或る日ふとS君がこう言った。
「東京の女の声が聞きたい!」するとそれを私はすぐ引き取って、
「ほんとだ。僕もそろそろ東京に帰りたくなった。東京の夜の明るいのが思い出される。」……しばらくして、
「こんど帰ったら、いちど存分遊ぼうじゃないか。」
「遊ぼう! ほんとに東京の女の声が聞きたい。」
「僕はいつでもそうだが、東京を出て旅をする時には、東京なんてなんだ、こんなつまらないところって言う気がして、早く知らないところに行って見たいと思うが、行くとすぐ飽きてしまうんだよ。」
「東京はいいからな。」
「やっぱり東京はいいんだね。」
「だからもう帰ろう!」と言って、S君は気負った。
「帰ろう。」私はしかし気のない返事をした。それで言葉が絶えた。私の心持ちは仕事のことや、家のことやで急《せ》き立っているけれど、からだはこの炬燵の中にどっしりと坐り込んでしまったようだ。微かだが自分のからだを如何《どう》することも出来なくなったようで気がじれる。
暫くすると、S君は何か思い出したように、
「君、本当に、も少しいる気はないか? 雪の解けるまで。」
「さあ……」私は大きいあくびをした。「まだ、その雪が解けてなんとかの花が咲くまでは大変だろう?」
「カタゴの花? それまでには二十日も、も少しくらいは間があるだろう。」
「じゃ、もう発とうや。仕事だって駄目だよ。」私は切りすてた調子で言った。すると、
「発たう。明日《あす》発たう。」とS君もこの倦んだ心持ちに反抗した調子で気負ってこう言った。
私達はしまいにはこんなふうだった。
で、私の仕事も中途だったが、なんとか始末をつけることにして、それから三日目、三十日に出発することに決めた
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