ると、今乗って来た馬車の馬が、長い綱の先きが杭に縛りつけてあった杭のまま、それを引きずりながら悠々と東の方に歩いて行く。
 まわりはしん[#「しん」に傍点]として、薄曇《うすぐもり》のした空の下に、水の流れる音も聞こえない。馭者の喧嘩の声はまだ聞こえる。
 どこか、林の方で折ふし木を伐る音がする。冴えた、トン、トンという音が、広いところに響きわたって行く。寂寞とした灰色と黄昏のような色がみなぎっている。車の中ではまた不平を言い出した。実際このいつ出るとも知れぬ馬車を待っている心細さと言ったらない。
 二人の声が低くなった。と思うと、馭者が真赤な顔をして、ブツブツと言いながら来た。
「日が暮れるぞ!」と待ち構えていた一人は言った。馭者は黙って返事もせず、轡《くつわ》をとると邪慳《じゃけん》に馬の首を引っ張って位置をなおした。

 ところへ、あとの方から前の一人が駆けて来て、綱を引ずった馬に追い付くと、
「コーレ、シッ」と大きな声で言って叱るのが聞こえた。そして馬を引いて帰って来た。
 私達の方の馭者も台に上った。そしていきなり、馬の尻に思うさま鞭をあてた。
 これから西に向いて行くのだ。日の入る方に向いて……。
 一町も行くと、第二の馬車に逢った。

 まもなく、猿ヶ石川の岸にかかった。
 と、後から、
「オーイ、オーイ」と呼ぶ声がする。私達の馭者はふと振り返ったが、急に馬車を止めた。
そして、
「チョッ! 業突張《ごうつくばり》!」と言いながら、車から下りた。あとにいた客は垂幕《たれ》を上げると、
「馬がたおれた。」と言った。車の中では顔を見合わせた。一様に誰にも不安な感が頭を走った。
「どうするんだ。これでいつ花巻に着けるんだ。」と一人が呟いた。
 私は立って、その入口の人を越して外に出た。地に降りると、まずあたりを見た。山になったので、勾配のやや強い、上り坂の中程で、ずっと遠くの方にある山が相接して立っている。そのあいだは餘程深い谷であるらしい。山には薄い靄が、かかっている。

 馬は二十間ばかり隔てたところに、道の一箇所でひどくぬかるみがする、その泥の中に倒れていた。馬車は大分傾いてわずかに保っている。乗客は降りて道の一方に困って立っていた。
「さっき、ひどく揺れた、あすこだな。」と思いながら、私はそこに歩み寄った。
 馬は泥の中につまずいて倒れていた。瘠せた
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