遠野へ
水野葉舟

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)家《うち》に

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|順《じゅん》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)小さい町へ[#「町へ」は底本では「町の」]つづいている
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     一

「いま、これから東の方に向って、この花巻を発つ。目的地の遠野に着くには、今夜、夜が少し更けてからだそうだ。」――この頃は、もう少しずつ雪が解けはじめたので、途中が非常な悪路だと聞いた。私は今日の道の困難なことを想像しながら、右の文句をはがきに書いた。私はこんどその遠野に帰っている友人に会うために、東京を出て来たのである。
 ところへ、宿の女がはいって来て、馬車がくる頃だから用意をしろという。私は急いで、そのはがきに午前九時十分と時間を書き入れた。それを留守宅の宛名にして、それから、ほかの一枚にも同じ文句を書いて、来る路に仙台で世話になった家《うち》に宛てた。
 手ばしこく洋服を着た。宿屋の勘定は前にすましてあったから、用意ができると玄関に出て行った。宿のものに送られて、靴を穿きながら空を見ると、つめたい、灰色の煙が立ち籠ったような空の色だ。
「これが、北国空《ほっこくぞら》か……」と思いながら、寒さと寂しさとがからだに沁みて来るようなので、私は堅く唇をむすんだ。
 宿屋を出て、町の街道《とおり》にくると、出たところに白い布の垂幕《たれまく》をおろした、小さな箱形の馬車が二台並んでいた。

 昨日、日の入るころ着いた時には、雪が解けて、この町には濁った水が流れていた。それが今朝はすっかり凍っている。その上を飛び飛び馬車に近づくと、私は馬の丈夫そうな先き立っている方に乗ろうとした。
 すると、そこに立っていた、赭顔《あからがお》の喰い肥った馭者が押し退けるような手真似をして、うしろのに乗れと言った。うしろのはその馬車にくらべると、馬も瘠せて小さかった。
 私は知らぬ土地に来た、旅人の心弱さで、黙って二三歩歩きかえして、瘠せて肋骨の出た馬が牽いている方に乗ろうとした。その時、前の馬車の垂幕があがって、うしろ向き美しく髪を結った娘が首を出した。

 私の乗った方には、二重マワシを着た長顔の鬚の白い老人と、黒羅紗《くろらしゃ》の筒袖の外套を着た三十恰好の商人体《しょうにんてい》の男とが乗っていた。私が入るとつづいて毛糸の襟巻をした若い男がはいって来て入口の戸を閉めた。
 やがて馭者がてんでに馭者台の上に座を占めると、二台の馬車がつづいて駆け出した。軒の低いくすぶった町並がどこまでもつづく。板で囲って穴を作っているような、薄暗い花巻の町が。
 私の馬車の方は、寒いのに垂幕が巻き上げてあった。馬車が町を駆けぬけると、目にひろびろとした雪の野が見えた。その中に、鉛のような色をして北上川が遙々と流れている。
 川の堤に出ると、上の方に長い舟橋が見えた。それに近づくと、「さ、降りねば……」と、奥に坐っていた老人がからだを振り向けて、車の中を一|順《じゅん》見た。
 馬車が橋のたもとで止ったので、私は一番に降りて、堤の上から、川の流れを見下ろした。大きい緩い水の流れが、広い平野の中に横わっている。寒い痛いような、風がそっと水面を渡って顔を吹いた。
 私は四辺《あたり》を見廻わして、自分がいま、ここに……この寒い国の大きい川の岸で広い雪の野を見ながら、こうして立っているのが実に思いがけないことのように思われた……。私は冬でも雪が積ったことのない国に永らく育てられたのだ。
 どやどや降りて来た、車の中の人にまじって、そのまま一人で橋を渡った。
 中途まで来て振り返って見ると、一間ばかり後のところに同じ車の老人がくる。私は歩みを止めて老人が追いついてくるのを待った。一緒に並ぶと、しばらく無言で歩いていた。
すると、
「どこまでおいでです?」と老人らしい調子で先方から口を切った。
「遠野までです。」私は待っていたように答えた。老人は歩きながら、改めて私を見返した。私はなお何か話そうと思ったが、心が重くって次の言葉が出なんだ。
 向いの岸に着いて馬車のくるのを待っていると、そこへ二台の馬車に乗っている人達がしだいに集まって来た。前の車に乗っていた娘は二人だった。色の赭黒い血肥りのした丈の短い……一人の方は頬に火傷《やけど》の痕《あと》があった。その娘達のうしろにその爺《おやじ》かと思われる鼠色の古びた帽子をかぶって顔も着物もぼやけたような四十五六の男が一人歩いて来た。
 その人達が思い思いに河岸に立って、馬車のくるのを待っていた。やがて、馬車はゴトリ、ゴトリと橋板の上に音をさせて近づいて来た。
 すると、前に来た馬車の中から、一人の男が顔を出していた。垂幕
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