を上げて、窓のふちにひじをもたせながら、そこに待っている人達を見おろして、得意そうににやにやして笑いかけた。その目と私の目とふと見合うと、私は妙な不快な感じがした。売卜者《うらないしゃ》のような人を馬鹿にした、……それでいて媚《こ》びようとするような顔をしている。角ばった、酒に酔ってでもいるような赤い顔で、大きい卑《いや》しい口に、赤い疎らな鬚をはやしている。
私はその男の目と見合わせると、すぐ傍を向いてしまった。そして肩を聳やかして、つっと自分の馬車の方に歩み寄った。
また前の馬車の中に座を占めた。窓から見ると、北上川の末の方まで、広い空は寒そうに曇っている。私は手提の中から、参謀本部の地図を出して、遠野と書いてある山間の小さい町へ[#「町へ」は底本では「町の」]つづいている道を指でたどって見た。道は殆んど山の中にばかりついている。それを見ながら、樹がしんしんと立っている、幾千年も前から、おし黙っているような、人気のない山間の道を想像した。私は心がじっと寂しくなってくるのを覚えた。と、美わしい顔色をした東京の女が懐かしく目に浮ぶ。華やかな笑い声も、もう久しく聞かぬような心持ちがする。
それで永いあいだ、その遠野に行こう、……山で囲まれた町、雪の中の町を見に行こうと希《ねが》っていた、好奇心がすっかり消え去ってしまうようだった。
馭者が鞭を振った。さも嫌やそうに、馬がのそりのそりと動き出した。と思うとビシリと、鞭があたる音がして、急に駆け出した。息がはずむように、揺り上げられる。
私は寂しい、少しぼっと気が遠くなったような心持ちがして、揺られながら目の前に移って行く景色を見入っていた。
道が山の中に入った。その時には私達の馬車は、もうよほど遅くれていた。前の馬車は、二町ばかり先きの松林の中を走っている、と思うと、道が曲って見えなくなった。
一つ、ゆるい坂を上って下ったと思うと、馬車はさらに勢いよく駆けた。そして、道の行手に二三軒家のあるところにくると、前の馬車がそこに止っている。私の乗っている方の瘠せた馬は躍り上るようにして、それへ駆けつけた。
「休むのか?」とうちから黒羅紗の外套が声をかけた。
「ああ。」と、台の上から馭者が返事をした。
車が止まった。私は地図を持ったまま外に出た。一時間ばかり乗っていたのだが、もうからだが痛い。私は思う存分、足を伸ばして、凍った雪を踏みながらその家のうしろに出た。寂然《せきぜん》とした冬枯れの山林が小さな田を隔てて前にある。地はすっかり雪が覆《かぶさ》って、その中から太い素直に伸びた若木が、白っぽい枯木の色をして立っている。私はその奥をすかして見た。ただ、雪と、林の木と幹とが見えるばかり。空を見れば、風もなく、烟《けむり》のような灰色の曇った空だ。空疎な、……絶えがたい寂莫な自然の姿だ。
ギュッと自分のごむ靴の底が雪に鳴った。私は立ったまま手にあった地図と鉛筆とをしっかり握って、しばらくこの寂莫が恐ろしいもののようにその林をすかして見ていた。
家の前で馬がいなないた。私は心づいて前の方に出て来た。すると、右側の雑貨をならべた家の前に、例の男が、……橋の上も馬車を降りなかった男が立っていた。
その男が私を見るとにやにやしく笑いかけた。私は知らぬ顔をして、ずっとその向い側に入って行った。その男は奉書紬《ほうしょつむぎ》の紋付を着て、黒い山高帽子をかぶって、何か村の有力家と言った姿をしていた。
私のはいった家には、はいったとこの土間に炉があって、それに馭者が大きくなって火に当っていた。同じ車の老人も、黒羅紗の外套を着ていた三十男も、襟巻の男もいた。私はその傍に立って時計を見るともう十一時だ。
「ここはなんと言うところです?」と、私は地図をひろげて、こっちの端にいた老人に聞いた。
「さ、……××村の中でしょう。」と、地図を覗き込んで、「××と言う村は出とりませんかな。」と聞く。
「ありました。」とその場所を指して見せて、「この次は土沢って言うところですね。そこまでどの位ありますか?」
「一里半かね。」と振り向いて馭者に聞いた。
「そうです。一里半少し遠いか。」と、喰《くら》い肥《ふと》った方が言った。体格から、言葉から兵役に行って[#「行って」は底本では「行つて」]来た男らしく見える。
私は立ったまま黙って地図を見ていた。この「磐井」「盛岡」の地図の表は山の記号《しるし》で埋まっている。この山と山の重なっている中には、どのような寂莫な、神秘が蔵《かく》されているだろう。
ふと、顔を上げると、炉端の人達が何かさぐるような、物珍らしいような目をして私を見ていた。私の目がみんなの方に向くと喰い肥った方の馭者が、大きく欠伸《あくび》して、さも不精無精《ふしょうぶしょう》に、
「
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