行くかな。」と、私の乗っている方の馭者を振り向いて見た。
「うむ。」と、その男が従順にうなずく。と、
「行くのかね?」例の老人が言って立ち上った。私はその人達より先に黙って戸口を出た。続いてさきの馬車の馭者が出て来て、のびのびと肥った両手を張ると、
「出んじょ!」と怒鳴りつけるように言った。
 両側の家にいた人達がみな出て来た。私は道端に立って、老人達のはいるのを待っていると、例の鼠色の帽子をかぶった男が、向いの家から出て来て、ぼやっとした顔つきをしながら、車の中にはいった。つづいて赤面の紋付がにやにやしながら出てくると、馬車の窓の下から、両手に持っていた紙に包んだものを、差し出して、
「ほれ、姉さん達、駄菓子だが一つ食《あが》りなさい。」と言う。中から「あれ、すみません。」と言って、二人の娘がはしゃいだ声を立てた。男は、
「まあ、まあ。」と押しつけるように、その包みを中に入れると、私を振り返って、したり顔に笑いかける。私はまた傍を向いた。

 人がみんな乗ってしまうと馬車がゆるゆると動き出した。道が少し上り坂になっている。
 私は煙草をふかしながら、二枚の地図を継ぎ合わせて、細《こま》かに、行手の道を見た。この次に通る土沢《つちさわ》を通り越すと、道が川に沿っている。
 渓流?……と、その変化の多い景色を想像して、心に微笑した。そして、強く煙草の烟を吸った。すると、烟が苦く刺すように舌に触る。ただ手持ち無沙汰なのをまぎらすばかりの煙草なので、この二三日の喫烟《きつえん》のために、私は舌をすっかり荒らしているのだ。
 と、前の馬車から娘達の賑やかな笑い声が起こった。それにまじって男の声も聞こえる。私は無聊なままに聴き耳を立てた。
 笑いながら言うらしい男の声で、――少しかすれているが上声《うわごえ》の、にごりのある調子で、
「まあ見せなさい。左の手、左の手だ。わしが運勢を見て上げる。」と言う。ひつっこく押しつけようとするらしい。その声で、あ、あの男だ、と、私はすぐ紋付の男の顔を思い浮べた。
「やんだ! おれは。」と言って娘の一人が、身をもがくように笑うのが聞こえた。と男がまた、
「そう言ったものではない。運勢を見て上げるんじゃから……」と、真面目らしく言いながら、娘の運勢や、性分などを占いでもするらしく説きはじめる。娘はいつまでもキャッ、キャッ言ってはしゃいでいた。
 すると、
「前では賑かだな。」と私とならんでいた商人体《しょうにんてい》の男がつぶやいた。老人もハハハハと大きい口を開けて笑った。私もつい微笑せずにはいられなかった。
 その時に道が下りになったので、馬が急に駆け出した。車の中では一時に下をぐっと引っぱられたので、みんなうしろの方によろめいた。「やけにやるナ」と商人体の男が窓から馭者の方を見て言って置いて、振り向くと軽く笑った。その拍子に前の馬車は四五間も離れたので、その笑い声も聞こえなくなった。

 車が今にもこわれてしまいそうに揺れる。からだがただ揺れるままにして、車の中では誰れもものを言わぬ。で、しばらくすると商人体の男がふと老人に話しかけた。
 それは芝居の話だ。数日前まで盛岡で興行していた、某一座を遠野に連れてくることになった談判の模様らしい。
 私はその話に耳を貸しながら、次第々々うしろに残されて行く景色を眺めていた。道は山に入るかと思うと、山を離れて畑のあいだを行く。だが、どこもかも、白々と雪が積って凍りついたまま野も山も深く眠っている。やがて土沢に着いた。一度夢に見たことのあるような町だ。材木を組み合わせたような造りの勾配の急な屋根の家が、高低を乱してつづいている。町の色が黒い。
 馬車は町の中ほどでちょっと止まったばかりで、いそがしそうに出発した。前の馬車では娘の一人が馭者を呼んで菓子を買わせていた。

     二

 やがて、渓流に沿った道に出た。道がしだいに上りになって行く。山が迫ってくるので、あとの方が広い野のように見える。私は地図によってこの川が猿ヶ石川であることを知った。
 道がまがるに連れて、景色が変って行く。見ると先きの方に大きい山の中腹を一條の道が走っている。それがわれわれの行く道であろう。
 私はもう疲れた。からだの自由は利かず、目に見える自然に飽いた。ねむりたいと思ったけれど、眠ることもできない。ただじっとからだを据えたまま、心でいろいろのことを思い描く。私は四年ぶりで逢った従妹の顔を思い出していた。子供の時分にはほとんど一緒に育った女だったが、四年逢わずにいたうちに結婚して、子供を生んでいた。その従妹の家に泊っていたあいだに私はしばしば、従妹が自分にはどうしても解することができない女になったと思った。……その従妹の顔がふと胸に浮かぶ。
 着いたはじめには、二人で向い合って
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