ざわ》」と、商人体の男が言った。
 また一しきり走ると、やがて馬車がとまった。
「休むのかね?」と中から聞くと、「ちょっと一休みしてから。」と雪に吹きつけられたような声で由爺が答えて馭者台を降りてしまった。私もそとに出た。
 馬車の響きが止ると、四辺《あたり》がしんとなる。どこかで遠く水の流れる音がする。雪の中に立って四辺を見ると、私達はいつか広い野に出ていた。迫っていた山が離れて、黒い巨大な影が雪の中に屏風のように聳えている。その裾野のところどころから火が見える。雪の中に火がぽっと赤く隈どっている。
 私は深く胸の奥で呼吸をした。
「ああ、神話がいま現実に生きているような国」と或る人が、遠野の話を聞きながら言った言葉を思い出した。
 後の馬車では誰れも降りなかった。雪の降る中に、笑い声もしない。また馬車に乗った。遠野まではあと一里半だ。道は平らな広い暗い野の中についているらしい。
 垂幕が風にあおられるあいだからは、あとの馭者台についている小さなランプの火に照らされて、雪が狂って降ってくるのが見えるだけ、その路を一時間ばかりも駆けたと思うと、馬車が止った。
 後の方で、不意に、
「さよなら!…御機嫌よう。」と娘が叫んだ。誰れか降りる様子である。
 娘の声は押し止めていた声を一時に立てたようだった。そしてあとはまた何か擽《くすぐ》られるようにはしゃいだ、笑い声が聞こえた。色を売る女のような笑い声だった。
 すると、私達の車の下に黒いものが、つっと表われて、襟巻をした男の声で、
「そんだら、誰方《どなた》も。」と言う。
「はあ、これはお休みヤンせ。」と、中から声を揃えて言った。と、その男は暗の中に消え去った。

 寒さで足の指先きが、痛くなって来た。不意と暗の中で、耳近く瀬の音が聞こえた。ちらと橋の欄干が見えた。やがて並木らしい、松の幹が見えたり消えたりすると、町にはいった。馬車はさらに勢い込んで駆けた。折々、家の灯で馬車の中がぼっと見える。由爺は最後に息のつづく限りラッパを吹いた。
 馬車が旅宿《やどや》の前に止った。私は馬車の中で挨拶をして、手提を持って降りた。家にはいろうとすると、後の馬車からも、男も娘達も降りて来た。
 上り口で、私はまたその紋付の男と顔を見合わせた。その男は相変らず笑いかけた。私の顔を見ると、宿の主人が、
「失礼ですが、あなた松井さんでは?」
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