りによいお茶をのんだ。もう午後の三時である。私たちは急いで下りねばならぬ。小舎の前に立って、おじいさんに山々を教えてもらう。中村清太郎氏が、ここで写した画の複写をもってきたので、大部わかる。白馬や、立山や、越路《こしじ》の方の峰には、雲が迷っていたけれど、有明《ありあけ》山、燕《つばくろ》岳、大天井《おてんしょう》、花崗石の常念坊《じょうねんぼう》、そのそばから抜き出た槍、なだらかな南岳、低くなった蝶ヶ岳、高い穂高、乗鞍、御嶽《おんたけ》、木曾駒と、雪をまとうた群嶺は、備《そなえ》をなして天の一方を限っている。右手は越後《えちご》、越中《えっちゅう》、正面は信濃《しなの》、飛騨《ひだ》、左手は甲斐《かい》、駿河《するが》。見わたす山々は、やや遠い距離を保って、へりくだっていた。しかも彼らは、雪もて、風もて、おのれを守り、おのれの境をまもっていた。知らず、あの沢は何を収め、あの峰は何をといているのだろう。山は答えず、笑みもしない。私の足は冷えてゆく。
おそくなるのを恐れて、私は早々にもと来《こ》し方《かた》へとおりていった。わがゆく方には、まえと同じ景、刻々にひらかれる。下りとて、さすがに来た時ほど悩まぬ。それに、さきに自分たちのつけた足あともある。ただこの大観をたのしむほどのゆとりに乏しい。滑らじと足ふみしめて、杖を大事につきたてる。
袴腰をも脱した。道はますます楽になった。うちむかう連峰の白と紫とは、薄墨色にかわってゆく。日が舂《うす》つく。山の端かけて空があからむ。その紅もうすく、よどんでしまう。風が私の頬をなぶる。春の風なら柔《やわら》かになでるのだけれど、これは先陣が、つと頬を切ってゆくと、後陣がまた、すいと刺してゆく。夏なら人をもゆるしてやる。しかし今この冬の王の宮居ちかく、生物とてはここの世界の草木も、虫も、眠る時を、なぜ、そなたは踏み込んだのだと責めるように吹く。私は転がるように降りた。くらくなった空を仰いで、M君は、あれが北斗だろうという。わらがとれてから、草鞋と足袋《たび》との間にはさまる雪の珠《たま》になやまされる。ついに足袋の紐《ひも》がずれる。草鞋をはきなおそうと、雪の上に足なげ出しての手まさぐり、ゲートルも、足袋も氷って、たやすく解けぬ。
いつか月が後から出てきた。山々がまた浮ぶ。私たちは月と雪とにてらされて、おりてゆく。松本の市街が
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