るが、このクセ即ち曲は、昔の曲舞の名残りで謡曲文中の花だと云はれてゐる。然し多くの場合に意味をなさない不規則な修辞的文字であるにとどまつて、精神的に全篇の有機体的情調を破壊してゐる。得て技巧上から見ようとする専門的見地に禍されない私共に取つて、このクセ(曲)は寧ろ迷惑である。もとより能楽の舞台効果からいふと、舞の関係上なくてはならないものであらうが、今日上演されてゐる曲目を通じて、舞そのものの価値でさへあるとは思はれない。然し私でも能楽の理解が進むに従つて、多くの人のやうに舞の歎美者となるかも知れないが……まだまださうなるには年数がかかる。或は私は到底舞の歎美者となれないかも知れない、クセの妙趣がいつまで過ぎても分らないかも知れない……それでいい、私の能楽に対する鑑賞は私の鑑賞である。他人からかれこれ云はれる筈がない。今『熊野』のこのクセに帰るが、これは私も満足しなければならない名文章ともいふべきもので、実際今日存在する三百番の中で、最も成功してゐる特殊な一例であるかも知れない。清水から見渡す風景も想像されてなかなかに面白い。熊野はクセにつれて遙か南を眺め上扇して大左右し、『稲荷の山の
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