の私の快感は、何物にも譬へることが出来ない。森林を吹き払ふ風の声か、海岸へ打込んで来る波の音とでもいふことが出来よう。地謡と囃子方の前で、私の親愛なる能役者は、慎み深い態度で女性となり、幽霊となり、戦場の勇者となり、諸国一見の旅僧となつて、観客の想像に訴へ、一枚の緞帳も用ひずに現実世界と幽霊界との二つの舞台を変化してゆく。これは最も完全に近い舞台の綜合芸術で、ここに関係するもの何一つ失つても破綻を来すに相違がない。この舞台芸術は欧米の世界へ、国宝として持出す価値がある。さうして欧米の舞台芸術は、きつと能劇から粗雑な凡俗主義を打破する暗示を受けるであらう。私はこれが日本に発達して、今日も盛であることを喜ぶものである。ああ、何たる完全な舞台の綜合芸術であるだらう。この特殊な芸術が放散する高調抒情詩気分に触れると、私共は直に現実から逃れて想像の世界へ入るのである。多くの場合に於ける想像は、無理な努力の仕事であるが、この能劇の殿堂では想像することぐらゐ容易で楽なことはない。私共は想像を追掛けるのでなく、想像が向ふから遣つて来る……私共は自由にそれを掴むだけだ。故にこの能楽堂に入るものは誰でも詩
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