に武蔵の繭玉が榎の枝で作られて、其年の月の数だけの枝ある木を用ゐるとあるを思ひ合せても、餅花・繭玉は農桑の豊作を祈るといふ習はしの通り、年占・祈年に神を迎へる為なる事は疑ひがない。小田原の団子の木が挽臼に立て掛けられるのも、依代と神座との関係を示してゐて面白い。繭玉系統の作り枝が社寺から出されるのは、依代に宿つた分霊を持ち帰つて祀る意味で、此点に於て削り掛け・ほいたけ[#「ほいたけ」に傍線]棒・粟穂・稲穂・にはとこ[#「にはとこ」に傍線]・幸木《サイハヒギ》なども皆同種のもので、延いては酉の市《マチ》の熊手も、御服の餅花から菖蒲《アヤメ》団子と反対に向いて、大きくなつたものと思はれる。同じ時に売られる五色餅《ゴシキモチ》を見ても、黙会せられる処がある。古今伝授の三木の一つなる、めど[#「めど」に傍線]にかけたけづりばな[#「けづりばな」に傍線]が、馬道《メダウ》にかけた削り花なることは、削り掛けの用途を知つてゐる人には疑ひがない筈である。其「花の木にあらざらめども咲きにけり」と言うたのは、削り掛けの一種に接骨木《ニハトコ》や竹にさす削り花のある其らしく、同じ糸にたぐり寄せられる物には、楢の木の殺《ソ》ぎ口を丁字形に切りこんで羊歯《シダ》の葉を挿し、田端の畦《ウネ》に立てられる紀伊熊野川沿岸の正月の立て物(名知らず)がある。古今集の歌は、かうした榑《クレ》や丸太に削り花の挿された物に、興味を持つて作つた籠題《コメダイ》だつたのであらう。
亀井戸の鷽替《ウソカ》への鷽は、形の上からすぐさま合点の行く様に、神前に供へられた削り掛けの依代を、奪ひ合ふ年占《トシウラ》の一種なのである。
桃の節供の雛壇のあたりに飾る因幡の餅花を見ても、儀式の依代であつたことは信じ易いであらう。自体、祈年祭りを二月四日に限るものゝ様に考へるのは、国学者一流の事大党ばかりの事で、農村では田畑の行事を始める小正月に取越して置くのが多く、又必しも正月十五日に限らず、大晦日・節分などを境目としてするものらしい。祇園の社頭ににう木[#「にう木」に傍線]に似た削り掛けを立てるのは、大晦日の夜から元朝へかけての神事ではないか。一体大晦日と十四日年越しと節分とは、半月内外の遅速があるだけで、考へ方によつては一つ物と思はれる。年占・祈年・左義長・鳥追ひ・道祖神祭・厄落しは、何《ド》の日に行うてもよいわけである。
とにかく竹を使ふにしても、自然木の枝を用ゐるにしてからが、皆多数の枝を要素としてゐることは、髯籠の髯と関係あるらしく、年々の月の数にこじつけたのは、素朴なぴたごらす[#「ぴたごらす」に傍線]宗の工夫の痕を示したのであらう。祇園の削り掛けの所謂|卯杖《ウヅヱ》が十二本であるのは、枝沢山の削り花から、にう木[#「にう木」に傍線]に歩みよる道すぢを示したのである。
平瀬麦雨氏の報告せられた信州松本の田植ゑの柳(郷土研究二の二)などもやはり此類で、傍標山の依代とも言ふ事が出来る。熊野新宮の対岸|神内《カミウチ》では、年内から、墓場に花籠と称する髯籠を立てゝ、其には花の代りに餅をつけて、正月の墓飾りをする由である。此は師走《シハス》晦日に亡者を呼びよせた髯籠と、祈年の依代との融合したものゝ様に見えるが、茲にも多くの枝を要素としてゐる事が知れる。花無き頃の間に合ひの作り花の、立てがらを取り換へる手数の省ける処から、削り花・花籠・餅花などは、一年を通じて用ゐられる様になつたのである。
さて依代の立て場所に就て、話さねばならぬ機会に逢着した。屋内に飾る餅花は、家で一番表立つた場所に据ゑられるものであるが、元はやはり屋外に立てられたものが、取り込まれる様になつたので、こゝに到つて装飾の意味あひが、愈深くなつたのであらう。花の塔《タフ》・天道花《テンタウバナ》などの高く竿頭に聳えてゐるものから、屋上に上げられる菖蒲・竹の輪・草馬に到るまで、皆神或は精霊の所在を虚空に求めてゐるのである。中陰の内は、亡魂屋の棟を離れぬといふ考へも、又屋の棟をば精霊のより処とする信仰も、皆虚空に放散してゐる霊魂を、集注せしめる依代なる基礎観念があるからである。我々の祖先ばかりでなく、どうやら我々自身も「魄」の存在を認めてゐない事は、明言して差支へがないらしい。

     七

ともあれ、山では自然の喬木、家では屋根・物干台、野原では塚或は築山などの上に、柱を樹てゝ、神の標《シメ》さしたものとするのであるが、尚其ばかりではうつかり見外される虞れのある処から、特別の工夫が積まれてゐるので、此処にだし[#「だし」に傍線]の話の緒口《イトグチ》はついたのである。
だし[#「だし」に傍線]の「出し」である事は殆ど疑ひがない。但、神の為に出し置いて迎へるといふのか、物の中から抜け出させてゐるから命《ナヅ》けられたのかは少し明らかでない。徳島の端午に作るやねこじき[#「やねこじき」に傍線]又は、だし[#「だし」に傍線]と言はれてゐる作り物は、江戸の顔見世《カホミセ》のとうろう[#「とうろう」に傍線]なる屋根飾りと同様に、屋上に出すもので、依代が竿頭から屋根に降りて来た時機を記念するものである。
今日浜松近傍でいふだし[#「だし」に傍線]は、各地の祭礼・地蔵盆の作り物、大阪西横堀の作り物などゝ同じ物を謂ふので、此は既に屋内まで降りて居るのである。此は依代の本意を忘れると共に、大規模の作り物を立てるに足る広い平面を要したからである。
同類の変形は、大阪新町・江戸新吉原のとうろう[#「とうろう」に傍線]にも見られる。実際真の燈籠を見せるのではなくて、顔見世のとうろう[#「とうろう」に傍線]と同じく、盆燈籠の立つ頃に、衆人に公開した作り物に過ぎなかつたので、更に佐伯燈籠に到つては祭礼の渡御の前に行く人形であつた。名義の起りは稍古いところに在る。私は此を室町の頃から行はれた禁裡の燈籠拝見の忘れがたみと見るべきもので、恋・無常の差はあるが、本願寺の籠花《カゴバナ》と同じ血脈を引いてゐて、等しく神・精霊に捧げた跡をあやからせる為に、公開したものと謂ふべきで、伊勢のつと入り[#「つと入り」に傍線]などもかうした共産的な考へから出た風習と思ふのである。全体、池坊《イケノバウ》の立花の始まりは、七夕祭りにあるらしい事は、江家次第の追儺の条を見ても明らかである。
さて、長崎宮日《ナガサキクニチ》に担ぎ出される傘鉾の頭の飾りをだしもの[#「だしもの」に傍線]といひ、木津のだいがく[#「だいがく」に傍線]の柱頭のしるしをだし[#「だし」に傍線]と言うてゐるのは、今日なほ山車《ダシ》の語原を手繰りよせる有力な手掛りである。手近い祇園御霊会細記などを見ても、江戸の末までも此|名所《ナドコロ》が世間には忘られてゐながら、山・鉾に縋り付いて、生き残つてゐた事が知れる。同書には「鉾頭、鉾の頂上なり、だし[#「だし」に傍線]なり」とか、或はだし花[#「だし花」に傍線]などいふ名詞を書き残してゐる。
今出来るだけ古くだし[#「だし」に傍線]といふ語《ことば》をあさつて見ると、王朝のいだし車[#「いだし車」に傍線]には深い暗示が含まれてゐるが、此は後の事として、次に思ひ浮べられるのは、旗|指物《サシモノ》の竿頭の飾りをだし[#「だし」に傍線]と言うたことである。嬉遊笑覧に引いた雑兵物語《ザフヒヤウモノガタリ》の※[#「穴/巾」、第3水準1−84−10]《サカバヤシ》のだし[#「だし」に傍線]・武者物語の鹿の角のだし[#「だし」に傍線]などは、決して珍らしい事ではない。いろ/\の旗指物図を見れば、到る処に此名所は散見してゐる。
例へば島原陣諸家指物図に、鍋島光茂の馬印を「大鳥毛・だし・金の瓢」と書いたのや、奥羽永慶軍記小田原攻めの条に出る岡見弾正の酒林《サカバヤシ》のさし物などを見ても知れる。尚笑覧に引いた、祐信の三つ物絵尽しの謎《ナゾ》の、端午の幟のだし[#「だし」に傍線]は五月幟の竿頭の飾りをもだし[#「だし」に傍線]と言うてゐた証拠である。
さて此様に、竿頭の依代から屋上の作り物、屋内の飾り人形或は旗竿尾の装飾にまで拡がつてゐるだし[#「だし」に傍線]の用語例は、直ちに、江戸の祭りの山車《ダシ》の起原に導いてくれる。山王・神田の氏子の山車が、祇園の山鉾を似せたものだと謂はないまでも、本家・分家の間柄を思はせるだけの形似のあるのは事実である。
江戸では屋台全体の名であつただし[#「だし」に傍線]が、京都・長崎・大阪木津などでは、尚部分の名称としてゐるのを見れば、聡明な読者にはどちらが末、どちらが本と言ふ考へが直様閃めいて来なければならぬ筈である。江戸の山車は旗竿の頭の飾り物が非常な発達をした為に、其儘全体の名となつたのであらうが、尾芝氏も言はれた通り、鉾と言ふ所から一々柱頭に剣を附添へた祇園の鉾も、元は柱の名に過ぎなかつたのである。さすれば、山車《ダシ》・鉾・山の関係は、次の図に示す様なものである。[#山車・鉾・山の関係の図(fig18393_01.png)入る]此名称の分岐点は、各部分の特徴から分化して来たものなる事は、改めて説明する迄も無からう。室町時代に出来た尺素往来《セキソワウライ》に、既に鉾と山とが列べられてゐるところから見ると、此山或は鉾に同化せなかつた前の江戸の山車の原始的な形はどういふ物であつたらうか。私は今各地の祭りにふんだんに用ゐられてゐる剣《ケン》ぼこの類から、範囲を狭めては四神剣の観察をする必要があると思ふ。百川《モヽカハ》の落語にひきあひに出る四神剣の、四神と剣とは、実は別物である。剣は普通の剣ぼこで、其と四神の違つてゐる点は、旗竿の頭の黒塗りの折敷《ヲシキ》様のものに四神の像を据ゑてゐる点で、下にはいづれも錦の幢《ハタ》を垂れてゐる。此が※[#「竹かんむり/(目+目)/隻」、第4水準2−83−82]《ワク》の上に立てられる事の代りに、車の上に載せるやうになれば、竿頭のだし[#「だし」に傍線]なる四神像は、望見するに都合よく廓大する必要が起つて来るので、そこに四神像に止らず、祇園其他の作り物の模倣が割り込んで来る余地の出来た訣で、現に大正の大典に輓《ヒ》かれた麻布末広神社の山車は、錦の日月幢を二丈余りの三段の空柱《ウツバシラ》の前面を蔽ふ程に垂れて、柱の末のをしき[#「をしき」に傍線]様のものに、水干を着て御幣を持つた猿の作り物が据ゑてあつた。大体に山の手の山車は、老人の話を綜合すると、半蔵門を潜る必要上、下町の物よりは手軽な拵へであつたらしい。
此が下町の山車になると、柱の存在などは殆ど不明で、寧祇園の鉾に近《チカ》づいてゐるが、多くの物はやはり人形の後に小さく、日月幢を立てゝ俤を止めてゐる。此想像が幸に間違つてゐなければ、江戸の山車は旗竿の大きくなつて車に載せられたもので、所謂依代が勢力を逞しくしたものなのである。
諏訪の御舟祭《オフネマツ》りの屋台は恐らく、元三《グワンサン》大師作と伝へる舟謡を残してゐるほど古い日吉山王の御舟祭りと同様、水上渡御の舟を移動神座なる※[#「竹かんむり/(目+目)/隻」、第4水準2−83−82]の上に据ゑたものらしく、舁くべき筈の物を輓く点と、依代なる人形の柱に関係のない点は他の祭屋台と違つた点であるが、江戸の山車が今日の四神同様※[#「竹かんむり/(目+目)/隻」、第4水準2−83−82]の上に立てられ、其に車をつける様になつたといふ道筋を教へるものではないだらうか。
祇園の方でも、名こそ違へ人形を飾る事は一つで、鉾や作り山が大きくなつた為に、だし[#「だし」に傍線]なる名称はとらなかつたが、畢竟同じ物でなければならない筈である。
さて長崎|宮日《クニチ》の傘鉾のだしもの[#「だしもの」に傍線]は、田楽師の藺笠の飾り物乃至獅子舞・手古舞《テコマヒ》の花笠と一つだといふと、不審を立てる人もあらうが、まづ聞いて貰ひたい。
祇園の傘鉾にも四条西洞院のものには、傘の上に花瓶を据ゑて、自然木の松と三本の赤幣束が挿してあり、綾小路や室町のものも傘の上の金鶏が卵を踏んでゐる後に、金幣が二本立
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