てられてゐた。更に古く尺素往来の所謂|大舎人《オホトネリ》の鵲鉾《カサヽギホコ》は実は異本にある笠鷺鉾の誤りであらうと言ふ事は、武蔵総社の田植ゑに出た傘鉾にだし[#「だし」に傍線]として鷺の飾りの附けられてゐるのを見ても明らかである。
住吉踊りの傘鉾にも幣束のだし[#「だし」に傍線]の附いたのがほんとうで、今一度話す機会はあるが、踊りの中心となる柱が多く傘鉾で、其柄の端には、花なり偶像なりの依代を立てる必要がある。前に述べた田楽師がすばらしい花藺笠を被《カヅ》くのも、元よりまし[#「よりまし」に傍線]であつた事を暗示するものであらう。そゝり立つ柱なり竿なりの先の依代なるだし[#「だし」に傍線]は、いくら柱が小さくなつても、或は終に柱を失うて、とゞのつまり人の頭に載る様になつても、振り落されなかつたのである。
神を迎へるだし[#「だし」に傍線]行燈が、宵宮《ヨミヤ》から御輿送《ミコシオク》りまで立てられたのは、最理窟に適うたことで、たゞ此を以て江戸の山車の起原と想像した我衣《ワガコロモ》の説は、成程笑覧の否定した様に、考へが狭過ぎる様だが、祭りが昼を主とする様になつてから、だし[#「だし」に傍線]行燈が装飾一遍となつたのは、大阪の祭提灯と同じ経路を辿つて来たものらしい。四尺許りの長提灯を貫いて、殆ど其三倍の長さの塗り物の竿が通つてゐて、其頭には鳥毛の代りに馬の尾か何かの白い毛を垂した、其上へ更に千成瓢箪・奔馬などの形の附いてゐるものである。其を宵宮には担《カタ》げて宮に参詣しては、新しい護符を貼りかへて貰つて帰つて来るのである。持ち帰ると家毎に表へ出してある、四方ころびになつた四脚《ヨツアシ》の台に立てゝ置いたのであるが、其用はやはり神招《カミヲ》ぎの依代として、天降《アモ》ります神の雲路を照すものなのである。
底本:「折口信夫全集 2」中央公論社
1995(平成7)年3月10日初版発行
初出:「郷土研究 第三巻第二・三号、第四巻第九号」
1915(大正4)年4月、5月、1916(大正5)年12月
※底本の題名の下に書かれて居る「大正四年四・五月、五年十二月「郷土研究」第三巻第二・三号、第四巻第九号」はファイル末の「初出」欄に移しました。
※底本では「訓点送り仮名」と注記されている文字は本文中に小書き右寄せになっています。
※踊り字(/″\)の誤用は底本の通りとしました。
入力:門田裕志
校正:多羅尾伴内
2006年3月21日作成
青空文庫作成ファイル:
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