けて帰る風もある。かの飯島お露の乳母が提げて来た牡丹燈籠なども亦此である。
話を再初めに戻して今一度|標山《シメヤマ》に就て述べて見たい。昔北野、荒見川の斎場から曳き出した標山などは、此神事に祭られ給ふべき天つ神を招ぎ依せるのが本意で、此を内裏へ引いて来るのは、寄り給ふ神々を導いて祭場まで御伴申すわけであつたが、此が一歩を転ずる時は途次の行列が第一になつて、鎮守さまへ行くのは、唯|山車《ダシ》や地車《ダンジリ》などを産土神に見せまゐらせ、神慮を勇め奉る為だとする近世の祭礼の練りものゝ形式になるのである。
標山系統の練り物の類を通じて考へて見るに、天神は決して常住社殿の中に鎮坐在すものではなく、祭りの際には一旦他処に降臨あつて、其処よりそれ/″\の社へ入り給ふもので、戻りも此と同様に、標山に乗つて一旦|天降《アモ》りの場《ニハ》に帰られ、其処より天馳《アマカケ》り給ふものと言はねばならぬ。神社を以て神の常在の地とするは勿論、神の依ります処とすることも、尠くとも天つ神の場合に於ては、我々の従ふこと能はざる見解である。
此に就ては、芸州|三原《ミハラ》の祭礼に、神は山上より降り来り給ひ、祭りの間おはします家を神主に憑《カヽ》つて宣らせ給ふと信ずる風習は、甚多くの暗示を含んでゐる。此即天つ神は地上にはいまさず、祭りの時に限つて迎へ奉ると言ふ消息を洩して居るもので無からうか。若し此信仰を認めぬとすると、各地の祭礼が必|宵祭《ヨヒマツ》りを伴うて居る風習を説明することがむづかしい。神が一旦他処に降り、其処から更に祭場に臨み給へばこそ、所謂|夜《ヨ》宮の必要はあるのである。此古くして忘れられたる信仰は、或は盂蘭盆の精霊の送迎の上に痕を留むる外に、尚ちらほらと各地に俤を残してゐる。
大和高市郡野口では村境に於て精霊の送迎をするさうである。前申す三原では三昧まで迎へに行き、精霊を負ふと称して後向きになり、負ふ様な手つきをして家まで帰ると言ふ話である。高天原と黄泉《ヨミ》[#(ノ)]国と本貫異なる両者を混同する様に見えるか知らぬが、何れも要するに幽冥に属する方々たる点に、疑ひはないのである。
標山の観念化を経たものに更に洲浜《スハマ》・島台《シマダイ》がある。洲浜のことは紫式部日記を初めとし、既に平安朝に於て尠からず見えて居る。島台となつてからも武家時代には盛んに用ゐられて居た様で、其極端なのはいつかの文部省展覧会の鏑木清方氏の吉野丸の絵に見えたもの、又は一九の詞書き朝麿画の「吉原年中行事」にも、月見の座に島台の描いてあるが如き、婚礼の席の外は殆ど此物を見る事のない今日の人の眼には、なる程異様にも映ずるか知らぬが、島台はもと/\宴席であるによつて此を据ゑるので、而も宴席に島台乃至洲浜を置くのは、これ亦標山の形骸を留めるものである。信仰と日常生活と相離れること今日の如く甚しくなかつた昔に於ては、神のいます処を晴《ハレ》の座席と考へてゐたことは、此を推測するに難くないのである。
五
日記物語類に見えた髯籠を列べ出す段になれば、いくらでもあるであらうが、要するに儀式の依代の用途が忘れられて供物容れとなり、転じては更に贈答の容れ物となつたのが、平安朝の貴族側に使はれた髯籠なので、此時代の物にも既に花籠やうの意味はあつたらしく思はれる。花籠なるものは、元来装飾と同時に容れ物を兼ねてゐる。此類から見れば、後世の花傘・ふぢばな[#「ふぢばな」に傍線]は遥かに装飾専門である。
さて此機会に、供物と容れ物との関係を物語る便宜を捉へさせて貰はう。私どもは供物の本義は依代に在ると信じてゐる。なるほど大嘗祭《オホンベマツリ》は、四角な文字に登録せられた語部が物語に現れて来る、祭祀の最古い様式かも知れない。しかし我々を唆る中心興味の存する祭場の模様は、ある人々の考へてゐるやうに、此祭り特有のものではないらしい。
諸神殺戮の身代りとして殺した生物《イキモノ》を、当体の神の御覧に供へるといふ処に犠牲の本意があるのではなからうか、と此頃では考へてゐる。人身御供《ヒトミゴクウ》を以て字面其儘に、供物と解することは勿論、食人風俗の存在してゐた証拠にすることは、高木氏のやうな極端に右の風習の存在を否定する者でない我々も、早計だとは信じてゐる。けれども殺すべき神を生しておいて、人なり動物なりを以て此に代へるといふことは、天梯立のとだえたことを示すもので、従来親愛と尊敬との極致を現して来た殺戮を、冒涜・残虐と考へ出したのは、抑既に神人交感の阻隔しはじめたからのことである。
大嘗祭に於ける神と人との境は、間一髪を容れない程なのにも係らず、単に神と神の御裔《ミスヱ》なる人とが食膳を共にするに止まるといふのは、合点の行かぬ話である。此純化したお祭りを持つた迄には、語り脱《オト》された長い多くの祖《オヤ》たちの生活の連続が考へられねばならぬ。其はもつと神に近い感情発表の形式をもつてゐた時代である。今日お慈悲の牢獄に押籠められた神々は、神性を拡張する復活の喜びを失うて了はれたのである。
神の在処《アリカ》と思はれる物が、神其物と考へられるのは珍らしいことではない。其物が小さければ小さい程、神性の充実したものと信ぜられて来るのは当然である。依代は固より、神性が神と考へられゝばこそ、舟・※[#「竹かんむり/(目+目)/隻」、第4水準2−83−82]・臼(横・挽)、あいぬ[#「あいぬ」に傍線]のかむいせと[#「かむいせと」に傍線]が御神体として祀られる訣である。
まづ、供物を容れる器の観察から導いて来ねばならぬ。折敷《ヲシキ》と行器とのくつゝいたやうな三方の類は大して古いものではなく、木葉や土の器に盛つて献らねばならぬ程の細かな物の外は、正式には、籠を用ゐたものでは無からうか。延喜式・神道五部書などに見えた輿籠《コシコ》(又は輦籠《コシコ》)は、疑ひもなく供へ物を盛つた器で、脚或は口を以て数へられる処から見ると、台の助けを俟たずに、ぢかに[#「ぢかに」に傍点]据《ス》ゑることの出来るもので、而も甕《ミカ》・壺《ツボ》の様に蓋はなく、上に口をあいてゐたものと思はれる。
処が又、こゝに毛色の変つた一類の籠がある。其は火袁理《ホヲリ》[#(ノ)]命の目無堅間《マナシカタマ》・熊野大神の八目荒籠《ヤツメノアラコ》・秋山下冰壮夫《アキヤマノシタビヲトコ》の形代《カタシロ》を容れたといふ川島のいくみ竹の荒籠などぼつ/\[#「ぼつ/\」に傍点]見えてゐるのが其で、どうやら供物容れが神の在処であつたことを暗示してゐる様である。増穂残口《マスホザンコウ》などを驚かした、熊野の水葬礼に沈めた容れ物は、実は竹籠であつたのであらう。かうした場合に、流失を防ぐのに一番便利な籠は、口の締め括りの出来る髯籠であつた筈である。死人を装うて、鰐対治に入つて行かれた大神の乗物が、長く熊野に残つてゐたことは、物忘れせぬ田舎人の心を尊まずにはゐられない。
籠がほゞ神の在処なることが確かであり、同時に供物の容れ物となつてゐたことが、幸に誤でなければ、直ちに其に盛られた犠牲は供物である以前に、神格を以て考へられたことに、結着させてもよからうと思ふ。百取《モヽト》りの机代物《ツクヱシロモノ》を置き足《タラ》はす様になつたのは、遥かに国家組織の進んだ後の話で、元は移動神座なる髯籠が、一番古いものであつたと思はれる。一歩退いて考へて見ても、神の形代なる犠牲が向上すれば神となり、堕つれば供物となると考へることが出来る。其依代も無生物よりは、生き物を以てすることが出来たなら、尋常の形代よりも更に多くの効果を想像することが出来よう。
偖《さて》其容れ物なる籠も、時には形代なる観念の媒介を得て、神格を附与せられて依代となるので、粉河の髯籠・木津のひげこ[#「ひげこ」に傍線]、或は幟竿の先に附けられる籠玉は、此意味に於て、其原始的の用途を考へることが出来るので、かの大嘗会の纛幡《タウバン》の竿頭の飾り物も、後世のは籠を地《ヂ》として黒鳥毛を垂したものである。執念深い連絡は、こゝにも見られるではないか。供物の容れ物が贈り物の容れ物となることは、すぐ納得の行くことで、其が更に飾り物になる事もさのみ手数を要すまい。私の考へから言へば、大矢透氏が幣束は供物から出たものであるとばかり解せられたのも考へものである。たとひ後世の事実から帰納せられたとは言へ、やはり実験を土台とせられてゐた山中翁の幣束神体説は、依代の立場から見れば尚権威を失うてはゐない。
必、神の依代に奉つたのが最初で、漸く本意を忘れて、献る布の分量の殖えて来るに従うて、専らに布や麻を献上する為のものと考へ出すやうになつたのが、絵巻物の世界の幣束だつたのである。さすれば、同じ道筋を通る平安朝の髯籠が、供物の容れ物から、贈答の器になつたのも故のあることであるが、後には殆ど装飾物として用ゐられる様になつた。木の枝に髯籠をつるして、鳥柴《トシバ》・作枝《ツクリエダ》と同様にさし上げて道行く人は、今日も絵巻物の上に見ることが出来る。
五月《サツキ》の邪気を祓うた薬玉《クスダマ》は、万葉びとさへ既に、続命縷《シヨクメイル》としての用途の外に、装飾といふ考へも混へてゐたのであるが、此飾り物も或は単に古渡《コワタ》りの舶来品といふばかりでなく、髯籠の形が融合してゐるのではあるまいか。
六
面白いのは宮《ミヤ》[#(ノ)]※[#「口+羊」、第3水準1−15−1]《メ》祭りの有様である。後人の淫祠の様子が、しかつめらしい宮中に、著しく紛れ込んでゐたのである。其柱の下に立てかけられた竹の枝につけた繖《キヌカサ》や男女の形代は、雛祭りが東風輸入であつたことの俤を遺して居ると同時に、此笹が笠間神《カサマノカミ》の依代である事を示すもので、枝に下《サ》げられた繖は、こゝにも髯籠の存在を見せてゐるのである。此笹と同じ系統のものには七夕竹・精霊棚の竹、小にしては十日戎《トヲカエビス》の笹・妙義の繭玉・目黒の御服《ゴフク》の餅、其他東京近在の社寺から出る種々の作枝《ツクリエダ》は皆此依代で、同時に霹靂木《ヘキレキボク》の用に供せられてゐるのである。
こゝで暫く餅花《モチバナ》の話に低徊することを許して貰はねばならぬ。正月の飾り物なる餅花・繭玉は、どうかすると春を待つ装飾と考へられてゐる様であるが、もと/\素朴な鄙の手ぶりが、都会に入つて本意を失うたもので、実は一年間の農村行事を予め祝うたにう木[#「にう木」に傍線]・削掛《ケヅリカケ》の類で、更に古くは祈年《トシゴヒ》に神を招ぎ降す依代であつたものらしい。其でまづ近世では、十四日年越からは正月にかけて、飾るのを本体と見るべきであらう。
阪本氏の報告によると、信州上伊那辺の道祖神祭りに、竹を割いて拵へた柳の枝やうの物を配ると、其を受けた家々では輪なりにわがねて、家根に投げて置くさうである。此は形の上から見ても、一目に吉野|蔵王《ザワウ》の御服《ゴフク》の餅花と一つものだと知れるが「ゑみくさ」に見えた佐渡のひげこ[#「ひげこ」に傍線]のやうに、焼くことを主眼とするものと、さうした左義長風な意味を持たぬ餅花の類との間を行くもので、両方へ別れて行つた分岐点を記念するやうに見える。大きなものなら立て栄《ハヤ》すが、小さなものは家根に上げて置く外はない。五月の菖蒲も此である。七夕或は盆に屋上に上げられる草馬にも、同じ系統は辿られるのである。
此竹の輪の大きなので、屋の内に飾られたのは、餅花である。一体餅花とくりすます・つりい[#「くりすます・つりい」に傍線]とは非常に近い関係にあるものと見えるが、同じ信州松本地方のものづくり[#「ものづくり」に傍線]或は名詮自性《ミヤウセンジシヤウ》のけやきのわかぎ[#「けやきのわかぎ」に傍線]、小田原で楢の木にならせる団子の木、岡市氏の報告せられた北河内の餅花(郷土研究三の一)などを見ると、愈其類似点が明らかになつて来る。ものづくり[#「ものづくり」に傍線]といふ名は、簡易な祈年祭りの依代なる事を示してゐるのである。常陸国志
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