てられてゐた。更に古く尺素往来の所謂|大舎人《オホトネリ》の鵲鉾《カサヽギホコ》は実は異本にある笠鷺鉾の誤りであらうと言ふ事は、武蔵総社の田植ゑに出た傘鉾にだし[#「だし」に傍線]として鷺の飾りの附けられてゐるのを見ても明らかである。
住吉踊りの傘鉾にも幣束のだし[#「だし」に傍線]の附いたのがほんとうで、今一度話す機会はあるが、踊りの中心となる柱が多く傘鉾で、其柄の端には、花なり偶像なりの依代を立てる必要がある。前に述べた田楽師がすばらしい花藺笠を被《カヅ》くのも、元よりまし[#「よりまし」に傍線]であつた事を暗示するものであらう。そゝり立つ柱なり竿なりの先の依代なるだし[#「だし」に傍線]は、いくら柱が小さくなつても、或は終に柱を失うて、とゞのつまり人の頭に載る様になつても、振り落されなかつたのである。
神を迎へるだし[#「だし」に傍線]行燈が、宵宮《ヨミヤ》から御輿送《ミコシオク》りまで立てられたのは、最理窟に適うたことで、たゞ此を以て江戸の山車の起原と想像した我衣《ワガコロモ》の説は、成程笑覧の否定した様に、考へが狭過ぎる様だが、祭りが昼を主とする様になつてから、だし[#「だし
前へ
次へ
全43ページ中41ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング