をあやからせる為に、公開したものと謂ふべきで、伊勢のつと入り[#「つと入り」に傍線]などもかうした共産的な考へから出た風習と思ふのである。全体、池坊《イケノバウ》の立花の始まりは、七夕祭りにあるらしい事は、江家次第の追儺の条を見ても明らかである。
さて、長崎宮日《ナガサキクニチ》に担ぎ出される傘鉾の頭の飾りをだしもの[#「だしもの」に傍線]といひ、木津のだいがく[#「だいがく」に傍線]の柱頭のしるしをだし[#「だし」に傍線]と言うてゐるのは、今日なほ山車《ダシ》の語原を手繰りよせる有力な手掛りである。手近い祇園御霊会細記などを見ても、江戸の末までも此|名所《ナドコロ》が世間には忘られてゐながら、山・鉾に縋り付いて、生き残つてゐた事が知れる。同書には「鉾頭、鉾の頂上なり、だし[#「だし」に傍線]なり」とか、或はだし花[#「だし花」に傍線]などいふ名詞を書き残してゐる。
今出来るだけ古くだし[#「だし」に傍線]といふ語《ことば》をあさつて見ると、王朝のいだし車[#「いだし車」に傍線]には深い暗示が含まれてゐるが、此は後の事として、次に思ひ浮べられるのは、旗|指物《サシモノ》の竿頭の飾りをだ
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