ても、通り神又は通り魔などゝ言ふ類もある。何れは人間でも、浮浪人は悪い事を犯し易い不安定状態に在る如く、浮浪神《ウカレガミ》も亦何時何処に割り込んで来て、神山を占めんとするやら計り難い故に、旁《かたがた》太陽神の御像ならば、睨み返しも十分で安心と言ふ考へであつたかと思はれる。
勿論此迄到来するには、数次の思想変化があつたに相違ない。最初は単純に招代であつたのが、次には其片手間に邪神《アシキカミ》を睨み返すことゝなり、果は蘇民将来《ソミンシヤウライ》子孫とか、鎮西八郎宿とか言ふ様に英雄神の名に托して、高く空よりする者の寄り来るを予防した次第である。西川祐信画の絵本徒然草に、垣根に高く樹《タ》てた竿の尖に鎌を掲げた図面があつた。余りに殺風景な為方とは思ふが、目籠と言ひ、鎌と言ひ、畢竟は一つである。
卯月八日のてんたうばな[#「てんたうばな」に傍線]なども、釈尊誕生の法会とは交渉なく、日の斎《モノイミ》に天道《テンタウ》を祀るものなるべく「千早ふる卯月八日は吉日よ、かみさげ虫の成敗ぞする」と申すまじなひ[#「まじなひ」に傍線]歌と相俟つて、意味の深い行事である。但、竿頭のさつきの花だけは、花
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