ることの多い言語の媒介によるよりも、寧ろ、情調を直通せしむるといふ方法を採る立ち場の出来る理由があるのである。
単に、作者の情調の傾向を読者に与へればよい。だから、この派の作者は、音楽的表示法を重じねばならぬと思ふ。音楽的表示法というたのは、音響を聴いて、その如何なる事件、如何なる思想を述べたといふことを知らないで居て、それでまづ聴者をして、音覚によつて惹起する所のある感情を感受せしむる方法である。この場合においては、この感情即内容である。音を利用して読者の感情を促がすといふことの可否は別に論ずる。この所にては、第一次思想を直《タヾチ》にあらはさむとする派のあることを説いたまでゞあるが、どうしても「言語形式」を伴ふ間は、完全に象徴主義を遂行することは出来ないものであるといふに止めておく。
内容と思想との関係区別は、前章以来、屡説いたのであるから、もはや明かになつたことゝ思ふが、形式と内容とに就いては、今少しいはなければならぬ。形式内容の前後軽重をいふのは、甚考へざるものである。ある形式とは、ある内容の外囲である。ある内容とは、ある形式の内包である。ある内包をとり去られた外囲は、決して形式といふことは出来ない。また実際に於ても、さういふものゝあるべき道理はない。唯、便宜上与へた名称なので、もと/\独立して存在すべき筈のものではない。しかしながら、それと共に、理論上、明かに区別は立てゝおかねばならぬ。これと同様に、ある外囲を棄てた内包は、内容と名づくることは出来ぬ。しかしながら、この場合において、いささか、いうておかねばならぬのは、作者側に「情調傾向」といふ主観的事実あるが如く、内包の予定なくしてあらはれた形式の後の内容といふものも、成り立つべき余地がある。これは、形式の観念が明かになれば何の疑《うたがひ》もない筈なのである。倫理学上の結果論と同じ立ち場にあるといふことが出来よう。
前章にもいうた如く、和歌は一面において形式美に偏した処があるから、この点はよく考へておく必要がある。主観的に内容の予定なく、あるひはそれが乏しくとも、客観的にはその形式に対して、当然適当な内容が来るべきものである。畢竟するに、動機論、結果論二つながら、理論上にも実際上にも欠陥があるのだから、理想とする所は矢張り、何れにも陥らない内容と形式との調和にある。しかしながら、今はそれを論ずる場合ではない。が、昔からあまりにこの思想を重んじすぎて居る。しかも、その根柢においては、詩歌の思想と内容との意義の混同が、大なる原因をなして居るに相違ない。自然主義者の所謂「真《シン》」の意義も、この点の分別が大分《ダイブ》欠けて居るやうに見える。つまり、汲々として、皆、形式、内容の交渉分離を知らずして、唯、思想を偏重した弊を脱することが出来ないのである。
この前提に立つて、自分は新に形体的内容、実質的内容といふ新名辞の説明を試みたい。
実質的内容とは、作者の予定より来る内容で、第一次思想から来るものであるから、これを直接内容とも名づけることが出来よう。次に、形体的内容とは、内容の予定なくして聯ねられたる言語が、偶然にある内容を有する形式となつた場合のその内容をいふので、畢竟実質的内容とは、思想より一直線に来る第二次思想、形体的内容とは、思想を発表する径路において、言語形式の為に、ある他の内容を形つくるもの、いはゞ副産物とも称すべきものである。
この副産物の出来る度合にも色々ある。或はこの副産物と主産物と全く融合して居ることがある。(肯《アヘ》て一致とはいはない。殆ど一致することはあるが、)それより、漸く副産物の量を減じて、部分的に副産物と主産物との交渉あるもの、或は殆ど副産物の加はつて居ないと見ゆるものもある。(言語形式を伴ふ間は、どうしてもこの副産物の含まるゝのは拒むことは出来ない。)
唯副産物の量を少くして、殆ど皆無と見ゆるに至るまでにするのが従来の作家の理想ではあるが、又一方に、この副産物を巧《タクミ》に利用するといふことも、詩としてはあながちに却《シリゾ》くべきことではないと思ふ。このことは後に言語情調に就て述べる時に、今一度説くつもりで居る。どうしても副産物が伴はるゝものとすれば、主産物との融合に努めて見ることも必要であり、又、その融合の程度によつて価値の増減も自《オノヅ》から生ずる訳である。然るに世の盲目評家は、その過程に於て、形式といふものを経《フ》ること、又、それが避くべからざるものなることを忘れて、この形式によつて、必然的に生ずる副産物の価値を認めないものすらあるが、実にわからないも甚しいといはねばならぬ。彼等は動《ヤヽ》もすれば技巧を排し、言語の彫琢を否定する。これ等の評家は、到底詩歌を解する資格がない。これ等の評家によつては、形式あるものは、すべて斥けられねばならぬ。象徴詩も彼等を満足せしむることは覚束ない。
形体的内容と、実質的内容との結合する点において、屡矛盾がある。是れ欠陥であると共に、亦これを利用して、好結果を収めることがある。落語とか笑府とかは、畢竟思想より直通して居る実質的内容と、言語形式によつて生ずる所の形体的内容とを並行せしめて、ある滑稽な内容を形《カタチヅ》くるのを目的とするのである。
川柳に於ては、最も著しくこの傾向を認めることが出来る。たとへば、
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居候醋のこんにやくをいつも喰ひ
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といふ句において、単に実質的内容なる食客《シヨツカク》がいつもすのこんにやくの[#「すのこんにやくの」に傍点]と小言をいはるゝとだけでは、何の興味もない。形体的内容に於て、醋あへの[#「醋あへの」に傍点]蒟蒻《コンニヤク》を常食として居るといふ意味があらはれて、実質的内容と並行して、しかも終には読者の観念界に実質的内容にある色彩を帯びた第二次思想となつてあらはれる点に、多大の興味があるのである。語をかへていふと、形体的内容と実質的内容とによつて形《カタチヅ》くられたる集合概念を抽き出すといふ所に興味は存するのである。
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茲に集合概念というたのは、厳格な意味に於て用ゐたのではなく、唯二つの内容が集合して一種特別な意味をなす点を捉へていうたのみで、勿論この集合概念の上には意味ある予定ある思想が働いて居るので、無意味の中から、意味を取り出すといふのではない。
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実質的内容は一つではあるが、形体的内容は、二つ以上に上《ノボ》ることがある。
実質的内容は、根本を作者の主観において居るが、形体的内容は、読者の客観を基礎として居る。
一体主観といふことは、背景的事実、認識すべからざる現象で、実際にはあらはれて来ない。すべて認識の上のことは、元来、皆主観から出るのであるが、これをいひあらはす場合には必ず客観的になつて来る。唯便宜上その程度によつて、主観とか、客観とか分つのであるが、もと/\皆主観に発した所の客観なのである。実質的内容は、作者の主観から発して客観的段階を経て、読者の客観を俟つて、その主観界に復活するものであるが、これにも度合があつて、読者に主観的分子を多く感ぜしむるものが主観詩で、客観的分子を多く感ぜしむるものが客観詩である。形体的内容についていふと、もと/\この表現は作者本来の目的でないので、元来は主観的でないのであるが、そのあらはす径路に於て主観的な表現法をもとることがある。
繰りかへしていふと、思想は作者の主観に根柢をおいて、之を客観的に観察したもので、これが更に客観的表現法によつて、ある形式を採つて読者の客観界に入つて、はじめて内容といふ名を得る。これがまた個々の読者の主観界に空想的仮象として顕はれる。
形体的内容は、読者の観照によつて、写象としてあらはれるが、今一歩其知性的分子を脱して感性に入ると、感覚的仮象となるのであるが、此感覚的仮象が観念界において、実質的内容から来た所の空想的仮象と結び附く処に、種々の関係を生ずる。勿論此場合、右の両者の統一融合せられるといふのが理想であるが、常に之を望むことは出来ない。しかし此理想地に至らなければ、観念的感情は起らない。感覚的仮象によつて感覚的感情が惹起せられたばかりでは、文学の真の目的が達せられたとはいはれぬ。しかも、尚此上に大なる要件がある。其は、観念の聯合といふことである。これは、専ら読者側にあることではあるが、作者は予め適当な観念の聯合をなさしむる為、恰好な形式内容を読者にあたへねばならぬことはいふまでもない。
形体的内容は、読者側において生ずるものなることは勿論であるが、作者の予期はおなじく度外視してならぬ。
読者の観照によつてあらはれる写象は、三つの異なる立ち場を有《も》つて居る。
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一、主観的表現
二、客観的表現
三、絶対的表現
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此三つの場合について、簡単な説明を試みよう。
(一)主観的表現といふのは、写象をとほしてある主観が認めらるゝもの。
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君[#「君」に白丸傍点]しのぶ[#「しのぶ」に傍点]草[#「草」に白丸傍点]にやつるるふる里は松虫の音ぞかなしかりける(古今)
わが庵は都のたつみしかぞ住む世を[#「世を」に白丸傍点]う[#「う」に傍点]ぢ山[#「ぢ山」に白丸傍点]と人はいふなり(同)
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前の歌は、忍草のしのぶといふ語を契機として、君しのぶといふ思想が結びつけられて居る。単に景《ケイ》を叙するに止めずして、作者の予期した主観的表現が認められる。
後のも、やはり、世をうぢ山のう[#「う」に白丸傍点]といふ語がはずみ[#「はずみ」に傍点]となつて、単に処を示すばかりでなく、作者の人格を述べて、歌全体に世を憂[#「世を憂」に白丸傍点]といふ色彩を帯《オ》びしめて居る。此表現法は、多く、一二音の類似から実質的内容の上にすつかり形体的内容を被らしめて居る。然し時としては、全体ではなく一部分の実質的内容と結合して居るのも見える。
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ましみづの細きながれは居ながらも手をひたすらになつかしげなる(大隈言道、草径集)
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兎も角、読者は僅かな音を媒介として、作者の思想と見ゆる者を二種以上|享《ウ》くることが出来るのであるから、非常に重宝な方法といはねばならぬ。
(二)客観的表現は、客観事象によつて惹き起された興味の印象が、全体的又は部分的に、実質的内容を蓋うて居るもので、此には叙景的のものと叙事的のものとがある。
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(イ)桜さく遠山どりのしだり尾のなが/\し日もあかぬ色かな(後鳥羽院、新古今)
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忍れどこひしき時はあしびきの山より月のいでゝこそ来れ(貫之、古今)
波まより見ゆる小島のはま楸ひさしくなりぬ君にあひ見で(勢語)
津の国の浦のはつ島はつかにも見なくに人の恋しきやなぞ(雅成親王、玉葉)
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いづれも景を叙するのは、ある語を喚び起す為の用意なので、短くて用を達するのもあるが、大抵長くなる様である。
叙景によつて与へられた印象が、しつくりと実質的内容にあてはまるものでなくてはならぬ。あてはまるといふのは、必しも関係のある事実を述ぶる必要はない。唯その形体的内容の聯想が、実質的内容と、傾向を一にして居ればよいのである。此には屡失敗したものがあるが、左のものゝ如きは成功して居る。
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(ロ)ますらをがさつ矢たばさみたち向ひ射るまとかたは見るにさやけし(万葉)
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よひにあひてあしたおもなみなばりにかけながき妹がいほりせりけむ(同)
あしびきの山どりの尾のしだり尾のなが/\し夜をひとりかもねむ(同、作者未詳)
たちのしり鞘にいり野に葛ひく我妹ま袖もて着せてむとかも夏葛ひくも(万葉)
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叙事的表現といふのも、畢竟、此うちにこめて説く事が出来ようと思ふ。ある観念、又はある思想を喚び起す為に、他
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