は、熊野へ行つたとき、或は伊勢へ参つたとき、淡路へ行つたときに、拾うて来た石といふ事になつて居るが、此は、巫女の類が、従来あつた石成長の話を、諸国に持つて歩いた印象が、残つたのだと見られる。
私は、恐らく其前に、石其ものがあちこち移動をし、歩くものだといふ話が、必出来て居たのだと思ふ。それがさうした話に、不審を懐く時代になつて、次の携帯して歩く人の話が出来たのではなかつたらうか。
石こづみの風習
此は、石の中にたま[#「たま」に傍線]が這入る、と考へた事から生じた、一つの風習と考へられるが、石の中に人をつみ込む風習が、古く日本にあつた様だ。男子が若者になる為には、成年戒を受けねばならなかつた。彼等は、先達に伴はれて山に登り、或期間、山籠りをして来るのであるが、其間に、此風習が行はれた様だ。修験道の行者仲間には、かなり後々まで、此風習が残つて居た様で、謡曲の谷行《タニカウ》を、あゝした読み方をするのにも、何か訣があるのだと思はれる。彼等の仲間では、死んだものがあると、谷に落して、石をふりかける。悪い事をした者は、石こづみ[#「こづみ」に傍点]にする。こづむ[#「こづむ」に傍点]とは、積み上げる事である。此が、後に石こづめ[#「こづめ」に傍点]と言はれる様になつて、奈良の猿沢の池の石こづめ塚の様な伝説も出来たのであるが、元は、山伏し仲間の風習であつた。其が、後には、山伏し以外の者にも、刑法として行はれる様になつた。
併し、山伏し仲間では、此が刑罰としてゞはなく、復活の儀式として行はれた時代があつたに相違ない。前に述べた、衣類や蒲団にくるまつて、魂が完全に、体にくつゝく時期を待つた、と同じ信仰のもので、石の中には、這入る事が出来ない為に、石を積んだのである。さうすると、生れ変ると信じたのである。
山伏し生活の起り
一体山伏しの為事は、何から始まつたかと言ふと、あれは元来、仏教から出て居るのではない。日本の古い神々の教へが、さうした形をもつてゐたので、村の若者を山籠りをさせて、男にする事が、其一つであつた。此時期が、後の山伏しの精進・行と言はれるものであつたので、山伏しの籠りに行くのは、即、若者になりに行つた風習の名残りである。
此風習は、山伏しを専門にしない者の間にも残つた。近年まで、羽後の三山などへ出かけたのが、其である。此は、従来の神道や仏教では、説明の出来ない事なので、たゞ山籠りの事を考へて見ると、山伏しの生活の始まつた、元の姿が訣ると思ふ。そして、此が宗教化し、毎年、時期を定めて行はれて居る中に、一種の宗教的な形をもつ様にもなつたのだが、更に此が、奈良朝以前から既にあつた、山林仏教の影響を受けて、遂に其一派の様に説明せられて来たのである。其山伏しに、石を積んで、人を入れる法式が残つて居るといふのは面白い。
二三年前、三河の山奥へ這入つて、花祭りといふ行事を見た。旧暦を用ゐた頃は霜月に行はれたが、今は初春の行事となつて居る。古い神楽の一部分で、神楽は三日三晩続いた、其一部分だと説明せられて居るが、要するに、村の若者に、成年戒を授ける儀式の名残りと見られるもので、白山と言ふものを作つて、若者に行をさせる。人にならせるといふ、信仰があつたのだと思はれる。
かやうに、若者になる為には、石につめたり、山の中に塗りこめたりする事が行はれたので、普通、山ごもりは、単なる禁欲生活だと思はれて居るが、実は其間に、かうして、一度自然界のものゝ中に這入つて来なければならなかつた。其をしなければ、人にもなれなかつたのである。此は、神の魂が育つのと、同じことになるので、他界から来るたま[#「たま」に傍線]をうける形なのであつて、さうする事によつて、村の聖なる為事に、与る資格が得られる、と考へたのである。
かういふ風に考へて見ると、他界からやつて来るたま[#「たま」に傍線]は、単に石や木や竹の様なものゝ中に宿るのではなく、人自身が、ものゝ中に這入つて、魂をうけて来るのであつた。をかしな考への様であるが、日本人が、最初から、現実に魂を持つて来て居ると考へたら、こんな話は出来なかつたと思はれる。即、容れ物があつて、たま[#「たま」に傍線]がよつて来る。さうして、人が出来、神が出来る、と考へたのであつた。
たま[#「たま」に傍線]とたましひ[#「たましひ」に傍線]との区別
たま[#「たま」に傍線]からたましひ[#「たましひ」に傍線]に這入つて見ると、用語例が、さま/″\に混乱してゐて、自分にも、賛成の出来ない様な、矛盾した気持ちで話をしなければならぬが、たま[#「たま」に傍線]とたましひ[#「たましひ」に傍線]とは、並んで居るのだから、此はどうしても、別のものと考へねばならぬ。たましひ[#「たましひ」に傍線]はたま[#「たま」に傍線]のひ[#「ひ」に傍線]で、即、火光を意味する、と説明した学者があつたけれども、其は信じられない説である。少くとも、第二義に堕ちた説明だと思はれる。やはり実際に使うてゐる例から、考へねばならぬと思ふが、大和だましひ[#「だましひ」に傍線]とか、其外、平安朝に書かれた用語例などで見ると、此は知識でなく、力量・才能などの意味に使はれて居るので、活用する力・生きる力の意を持つた、極端にいへば、常識といふことにもなるので、或学者は、大和魂を常識として説明したが、其までには考へなくとも、少くとも、働いてゐる力、といふ事にはなるのである。
沖縄へ行つて見ると、此二者の使ひ方が、明らかに違ふ。たま[#「たま」に傍線]は、我々の謂ふたましひ[#「たましひ」に傍線]の事で、たましひ[#「たましひ」に傍線]は、才能・技倆を意味する。ぶたましぬむん[#「ぶたましぬむん」に傍線](不魂之者《ブタマシノモノ》)と言ふのは、器量のないもの・働きのないものと言ふことになるので、平安朝時代の用語例と、非常によく似た近さを、持つて居るのである。
さうすると、たま[#「たま」に傍線]とたましひ[#「たましひ」に傍線]との区別は、どこにあるかと言ふ事になつて来るのだが、其説明は、簡単には出来ない。とにかく、少くとも、たましひ[#「たましひ」に傍線]と言ふものは、目に見える光りをもつたもの、尾を曳いたものではない。抽象的なもので、体に、這入つたり出たりするものがたま[#「たま」に傍線]だつたのであるが、いつか其が、此を具体的に示した、即、たま[#「たま」に傍線]のしんぼる[#「しんぼる」に傍線]だつたところの礦石や動物の骨などだけが、たま[#「たま」に傍線]と呼ばれ、抽象的なものゝ方は、たましひ[#「たましひ」に傍線]と言ふ言葉で、現される様になつた。大変な変化が起つた訣である。
此、たま[#「たま」に傍線]とたましひ[#「たましひ」に傍線]との区別に就いては、いづれ機会を見て、もう一度話をして見たいと思ふ。
底本:「折口信夫全集 3」中央公論社
1995(平成7)年4月10日初版発行
初出:「民俗学 第一巻第三号」
1929(昭和4)年9月
※「郷土研究会講演筆記」の記載が底本題名下にあり。
※底本の題名の下に書かれている「郷土研究会講演筆記、昭和四年九月「民俗学」第一巻第三号」はファイル末の「初出」欄、注記欄に移しました。
※底本では「訓点送り仮名」と注記されている文字は本文中に小書き右寄せになっています。
入力:高柳典子
校正:多羅尾伴内
2006年3月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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