で勤めあげた神人と交迭するのである。十三年に一度、其年の八月の一日から三日間、殿庭《トンニヤア》とも、あさぎ[#「あさぎ」に傍線]庭《ナア》ともいふ、神あしやげ[#「神あしやげ」に傍線]前の空《アキ》地に、桁《ケタ》七つに板七枚渡した低い橋を順々に渡つて、あしやげ[#「あしやげ」に傍線]の中に入るのである。此を七つ橋といふ。此行事を遂げたものが皆、神人《カミンチユ》になるのであるが、若し姦通した女が交つてゐる時は、其低い芝生の上に渡した橋から落ちて死ぬものと信ぜられてゐる。そして、新しく神人になつた者の神名は、いざい神[#「いざい神」に傍線]で、其を或期間勤め上げると、たむつ神[#「たむつ神」に傍線]の時期に入る。此が又、二期に分れてゐる様で、たむつ神[#「たむつ神」に傍線]を勤め上げて、神人関係を離れるのはどうしても六十を越してからである。西銘《ニシメ》氏は、七十で満期だというてゐる。此いざいほふ[#「いざいほふ」に傍線]は、内地の託摩《ツクマ》の鍋祭りと同じ意味のもので、久高人《クダカビト》が今日考へてゐる様に、貞操の試験ではなく、琉球神道に於ける神人資格の第一条件である所の二夫に見えてゐない女といふ事が、根本になつてゐる様である。他の地方では今日それ程、厳重な儀式を経なくなつてゐる。
現在の久高《クダカ》のろ[#「のろ」に傍線]は大正十年の春、前代の久高《クダカ》のろ[#「のろ」に傍線]の子の西銘《ニシメ》氏の妻であつたのが、嫁から姑の後をついだのであつた。それまでは、矢張りたむつ神[#「たむつ神」に傍線]として神人の一人であつた。此嫁のろ[#「嫁のろ」に傍線]の制度は、久高島では初めてゞあるが、本島では早くから行うてゐた処もある。それは、のろ[#「のろ」に傍線]役地を、娘のろ[#「娘のろ」に傍線]であると、其儘持つて嫁入りするといふ虞《おそ》れがあるからである。

     九 祖先の扱ひ方の問題

七世生神は、人が死後七代経てば、其死人は神となると言ふことである。其が、父神(ゐきい神)母神(おめない神)の位に分れる。つまり、一番新しい家で言へば、其家には神がない。此を新宗家《シンムウト》と言ふ。それより古い家を、中むうと[#「中むうと」に傍線]と言ひ、其中、宗家の宗家を、大宗家《ウフムウト》と言ふ。即、八重山では、新建物に火の神を祀る。時によれば父・母二神の上に、根神の存する事がある。処が、おめない神[#「おめない神」に傍線]・ゐきい神[#「ゐきい神」に傍線]は、両方とも根神である。其で、ゐきいおくで[#「ゐきいおくで」に傍線]・おめないおくで[#「おめないおくで」に傍線]を統括するねがみおくで[#「ねがみおくで」に傍線]がある。即、ねがみおくで[#「ねがみおくで」に傍線]は、総本家の女房である。此女房が先達となつて、もとはか[#「もとはか」に傍線]詣でに出かける。此は、今では一種の遊山旅行であるが如くになつて来た。(ほんとうの神体として、沖縄本島では、銅製の鏡を立てるが、八重山では、此を嫌つて居る。)
毎年時候のよい時に、総本家の女房に率ゐられて、数多くの拝所《ヲガン》を、拝みながら巡回する。琉球の島にあつて、神に関係ある場所は、此等の人々に大抵関係があるので、一つ/\巡つて歩く。少しでも関係ある墓等も、遺りなく拝み巡る。それ故、遠近の差で、其拝む度数が定まつて来る。又、血縁の遠近によつても、拝する度数が定まつて来る。其他、ゆた[#「ゆた」に傍線]の言によつて、諸処を拝んで歩く。琉球の女は迷信深いから、到る処を拝してまはる。それで、西参り・東参りの話が出来た。此は西巡礼・東巡礼の如きものである。婚姻後には、更に巡礼する場所が増加して来る。参拝は、彼等にとつて、最大なる事業である。此巡礼をせなければ、神の祟りをうけると信じて居る。巡礼の原因は、死人の霊の祟りを怖れて、其霊魂に仕へる為であるが、此意味が次第に薄らいで来て遂に、神様になつたのである。古い時代には、途に骸骨等があると、自分の家と反対の方向へ向けて戻つた。其は、此骸骨から、魂が自分の家の方へ来てはならぬ様にするからである。塚なども、厳重に守られた。昔は、洞窟の中へ死体を入れて、其口を漆喰等で厳重に固めたのである。それで、現今古墳の漆喰の隙間をのぞくと白骨が非常に沢山見える。沖縄本島では、墓を祀つたものは大切にしないが、宮古・八重山では、墓をおほん[#「おほん」に傍線]としたものが多い。即、墓の前に拝殿を築いた様なものも多くある。本島の方にも、此があるらしく想はれる。此墓から、うやあがん[#「うやあがん」に傍線]・ふあがん[#「ふあがん」に傍線]が出来て来るのである。

     一〇 神と人との間

日本内地に於ける神道でも、古くは神と人間との間が、はつきりとしない事が多い。近世では、譬喩的に神人を認めるが、古代に於ては、真実に神と認めて居たのである。生き神とか現つ神とか言ふ語は、琉球の巫女の上でこそ、始めて言ふ事が出来る様に見える。即、神人は祭時に於て、神と同格である。
薩摩の大島郡喜界个島では、てんしゃばら[#「てんしゃばら」に傍線](天者の系統)と言ふ家筋がある。昔、此附近へ女神が降りて来た時、村人は尾類《ズリ》(遊女)が降つたと言うて嘲笑した。天女は再び天へ上り、異つた地へ天降つた。此村のある百姓が発見して大切に連れ戻り、天女と結婚して子孫を挙げた。後に此女は高山へ登つたが、其櫛・かもじ等が、洞窟の中に残存して居る。此女の子孫が、天者腹《テンシヤバラ》であると言ふ。此は人間界の話を、神格化した物語である。此様な話は、内地から琉球へかけて非常に沢山ある。研究して行くと、此女は神人であつて、神人が結婚し得ざる時代、神人に男が関係する事の出来ない時代の話に他ならない。
神と人との境の明らかでないことが、前に述べた程甚しいのであるから、神を拝むか、人を拝むか、判然しない場合すらある。のろ殿内[#「のろ殿内」に傍線]に祀るのは、表面は、火の神《カン》であるが、此は単に、宅《ヤカ》つ神としてに過ぎない事は既に述べた。のろ[#「のろ」に傍線]自身は、由来記などに記した程、火の神を大切にはしてゐない。のろ[#「のろ」に傍線]の祀る神は、別にあるのである。
正月には、村中のものがのろ殿内[#「のろ殿内」に傍線]を拝みに行く。最古風な久高《クダカ》島を例にとると、其は確に久高《クダカ》・外間《ホカマ》両のろ[#「のろ」に傍線]の火の神を拝むのではない。拝まれる神は、のろ[#「のろ」に傍線]自身であつて、天井に張つた赤い凉傘《リヤンサン》といふ天蓋の下に坐つて、村人の拝をうける。凉傘は神あふり[#「神あふり」に傍線]の折に、御嶽《オタケ》に神と共に降ると考へてゐるのであるから、とりも直さずのろ[#「のろ」に傍線]自身が神であつて、神の代理或は、神の象徴などゝは考へられない。併し、神に扮してゐるのは事実であつて、其が火の神ではなく、太陽神《チダガナシ》若しくは、にれえ神[#「にれえ神」に傍線]と考へられてゐる様である。外間《ホカマ》のろ[#「のろ」に傍線]の殿内には、火の神さへ見当らなかつた位である。外間のろ[#「外間のろ」に傍線]或は、津堅《ツケン》島の大祝女《ウフヌル》の如きは、其拝をうける座で、床をとり、蚊帳を釣つて寝てゐる。津堅《ツケン》の方は、そこで夫と共寝をする位である。のろ[#「のろ」に傍線]自身が同時に、神であると云ふ考へがなければ、かうした事はない筈である。本島に於て、神を意味するちかさ[#「ちかさ」に傍線](司)は、先島ではのろ[#「のろ」に傍線]と言ふ語の代りに用ゐられてゐる。ねがみおくで[#「ねがみおくで」に傍線]の「おくで」は、久高島では、神の意味らしく使ふ。
生前さへも其通りだから、死後に巫女を神と斎くは勿論である。本島から遠い離島《ハナレ》に数ある女神の伝説は、殆どすべて、島々に巫女として実在した人の話にすぎない。即、沖縄神道では、君《キミ》・祝《ノロ》に限つては、七世にして神を生ずといふ信仰以上に出て、生前既に、半ば神格を持つてゐるのである。羽衣・浦島伝説系統の女神・天女に関する限りなき神婚譚は、皆巫女の上にありもし、あり得べくもあつて(柳田氏)民習の説話化したものに疑ひない。其上余り古くない時代に、久高の女が現にある様に、一村の女性挙つて神人生活を経た者と見えて、今尚主として姉を特殊の場合に、尊敬してうない神[#「うない神」に傍線]といふ。姉妹神の義である。姉のない時は、妹なり誰なり、家族中の女をうない神[#「うない神」に傍線]と称へて、旅行の平安を祈る風習が、首里・那覇辺にさへ行はれてゐる。うない[#「うない」に傍線]拝《ヲガ》みをして、其頂の髪の毛を乞うて、守り袋に入れて旅立つ。此は全く、巫女の鬘に神秘力を認める考へから出たものである。尤、一村の男をすべて、男神《ヰキイガミ》(おめけい神)と見る例は、語だけならば、久高島の婚礼期にもあつた。国頭郡|安田《アダ》では一年おきに、替り番にうない神[#「うない神」に傍線]を拝み、ゐきい神[#「ゐきい神」に傍線]を拝むと称して、一村の女性又は男性を、互に拝しあふ儀式がある。併しゐきい神[#「ゐきい神」に傍線]を男子を以て代表させることは、女であつて陽神専属・陰神専属の神人があつたことの変化したものではあるまいか。でなくては、厳格にゐきい神[#「ゐきい神」に傍線]といはれるのは、根人だけでなければならぬ。事実、男の神人は極めて少数で、男逸女労といはれる国土でありながら、宗教上では、女が絶対の権利を持つてゐたのである。
神人の墓と凡人の墓とを一緒にすると、祟りがあると言ふ。紀に見えた神功皇后の話も此と一つである。
久高・津堅二島は、今尚神の島と自称してゐる土地である。学校あり、区長がゐても、事実上島の方針は、のろ[#「のろ」に傍線]たちの意嚮によつてゐる形がある。
神託をきく女君の、酋長であつたのが、進んで妹なる女君の託言によつて、兄なる酋長が、政を行うて行つた時代を、其儘に伝へた説話が、日・琉共に数が多い。神の子を孕む妹と、其兄との話が、此である。同時に、斎女王を持つ東海の大国にあつた、神と神の妻《メ》なる巫女と、其子なる人間との物語は、琉球の説話にも見る事が出来るのである。
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此短い論文は、柳田国男先生の観察点を、発足地としてゐるものである事を、申し添へて置きます。
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底本:「折口信夫全集 2」中央公論社
   1995(平成7)年3月10日初版発行
初出:「世界聖典外纂」
   1923(大正12)年5月
※底本の題名の下に書かれて居る「大正十二年五月『世界聖典外纂』」はファイル末の「初出」欄に移しました。
※拗音が小書きになっているところは底本通りにしました。
※「かないの君真者《キムマムン》[#「かないの君真者《キムマムン》」に傍線]」は底本では右側に傍線、左側にルビがついています。
※踊り字(/″\)の誤用は底本の通りとしました。
入力:門田裕志
校正:多羅尾伴内
2006年3月21日作成
青空文庫作成ファイル:
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