くなり、神の性格が向上すると共に、天を遥拝する為の御嶽拝所《オタケヲガン》さへも出来て来たのである。だから、御嶽《オタケ》は、遥拝所であると同時に、神の降臨地と言ふ姿を採る様になつたのである。

     三 霊魂

霊魂をひつくるめてまぶい[#「まぶい」に傍線]と言ふ。まぶり[#「まぶり」に傍線]の義である。即、人間守護の霊魂が外在して、多くの肉体に附著して居るものと見るのである。かうした考へから出た霊魂は多く、肉体と不離不即の関係にあつて、自由に遊離脱却するものと考へられて居る。だから人の死んだ時にも、肉霊を放つまぶいわかし[#「まぶいわかし」に傍線]と言ふ巫術が行はれる。又、驚いた時には、魂を遺失するものと考へて、其を又、身体にとりこむ作法として、まぶいこめ[#「まぶいこめ」に傍線]すら行はれて居る。
大体に於て、まぶい[#「まぶい」に傍線]の意義は、二通りになつて居る。即、生活の根本力をなすもの、仮りに名付くれば、精魂とも言ふべきものと、祟《タヽ》りをなす側から見たもの、即、いちまぶい[#「いちまぶい」に傍線](生霊)としにまぶい[#「しにまぶい」に傍線](死霊)とである。近世の日本に於ては、学問風に考へた場合には、精魂としての魂を考へることもあるが、多くは、死霊・生霊の用語例に入つて来る。
けれども古代には、明らかに精霊の守護を考へたので、甚しいのは、霊魂の為事に分科があるものとした、大国主の三霊の様なものすらある。
但、琉球のまぶい[#「まぶい」に傍線]は、魂とは別のものと考へられて居る。魂は、才能・伎倆などを現すもので、鈍根な人を、ぶたましぬむうん[#「ぶたましぬむうん」に傍線]と言ふのは、魂なしの者、即、働きのない人間と言ふ事になつて居る。又、たま[#「たま」に傍線]と言ふ語《ことば》を、人魂或は庶物の精霊に使用する例は、恐らく日本内地から輸入したもので、古くは無かつたものと思ふ。強ひて日琉に通ずる、たま[#「たま」に傍線]の根本義を考へると、一種の火光を伴ふものと言ふ義があるやうである。
精霊の点《トモ》す火の浮遊する事を、たまがり[#「たまがり」に傍線]=たまあがり[#「たまあがり」に傍線]と言ふのは、火光を以て、精霊の発動を知るとした信仰のなごりで、その光其自らが、たま[#「たま」に傍線]と言はれた日琉同言の語なのであらう。だからもとは、まぶい
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