盆踊りと祭屋台と
折口信夫

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)盂蘭盆《ウラボン》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)皆|産土《ウブスナ》の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「車+罔」、第3水準1−92−45]《オホワ》に

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)あり/\と
−−

     一 盂蘭盆と魂祭りと

盆の月夜はやがて近づく。広小路のそゞろ歩きに、草市のはかない情趣を懐しみはするけれど、秋に先だつ東京の盂蘭盆《ウラボン》には、虫さへ鳴かない。年に一度開くと言はれた地獄の釜の蓋は一返では済まなくなつた。其に、旧暦が月齢と名を改めてからは、新旧の間を行く在来《アリキタ》りの一月送りの常識暦法が、山家・片在所にも用ゐられるやうになつたので、地獄の釜の番人は、真に送迎に遑なきを嘆じてゐるであらう。諺に「盆と節季が一緒に来た」といふ其師走の大祓へに、祭や盆を搗《カ》て合せた無駄話しをして見たい。
地獄の釜の休日が、三度あるといふ事は、単に明治・大正の不整頓な社会に放たれた皮肉だと思うてはならぬ。一月・二月・七月・九月・十二月の五回に精霊が戻つて来るものと、古くから信じられてゐた。徒然草の四季の段の終りにも、此頃は都でははやらないが、大晦日の晩に、東国では精霊が来るといふ風に見えてゐる。五度行うた精霊会が、南北朝の頃には、社会的の勢力を失うて、唯一回の盂蘭盆会に帰趨した痕を示したのであるが、七月の盂蘭盆と十二月の魂祭《タマヽツ》りとは、必古の大祓への遺風であると信じる。かういふ事をいふと、実際神仏混淆の形はあるが、諸君が心中に不服を抱かれる前に、一考を煩はしたい問題がある。
其は民族心理の歴史的根拠を辿つて行つた時に、逢着する事実である。外来の風習を輸入するには、必在来のある傾向を契機としてゐるので、此が欠けてゐる場合には、其風習は中絶すべき宿命を持つてゐるのである。だから力強い無意識的の模倣をする様になつた根柢には、必一種国民の習癖に投合する事実があるのである。
斉明天皇の三年に、飛鳥寺《アスカテラ》の西に須弥山の形を造つたといふ、純粋の仏式模倣の行事が、次第に平民化・通俗化せられるに従うて、固有の大祓へ思想と復活融合を来したので、半年の間に堆積した穢れや罪を、禊《ミソ》ぎ棄つる二度の大祓への日に、精霊が帰つて来るといふことになつた。死の穢れを忌んだ昔の人にも、当然有縁の精霊は迎へねばならぬとなれば、穢れついでに大祓への日に呼び迎へて、精霊を送り帰した後に、改めて禊ぎをするといふ考へは、自然起るべき事である。兼好の時分、既に珍らしがられた師走の霊祭《タマヽツ》りは、今日に於ては、其面影をも残してゐないのは、然るべき事である。
古代に於ける人の頭には、をりふしの移り変り目は、守り神の目が弛んで、害物のつけ込むに都合のいゝ時であるとの考へがあつた。それ故、季節の推移する毎に、様々な工夫を以て悪魔を払うた。五節供は即此である。盂蘭盆の魂祭りにも、此意味のある事を忘れてはならぬ。
魂迎へには燈籠を掲げ、迎へ火を焚く。此はみな、精霊の目につき易からしむる為である。
幽冥界に対する我祖先の見解は、極めて矛盾を含んだ曖昧なものであつた。大空よりする神も、黄泉《ヨミ》よりする死霊も、幽冥界の所属といふ点では一つで、是を招き寄せるには、必目標を高くせねばならぬと考へてゐたものと見える。雨乞ひに火を焚き、正月の十五日或は盂蘭盆に柱松を燃し、今は送り火として面影を止めてゐる西京の左右大文字《サイウダイモジ》・船岡の船・愛宕の鳥居火《トリヰビ》も、等しく幽冥界の注視を惹くといふ点に、高く明《アカ》くと二様の工夫を用ゐてゐる訣である。盆に真言宗の寺々で、吹き流しの白旗を喬木の梢に立てゝゐるのは、今日でも屡見るところである。

     二 標山

此柱松や旗の源流に溯つて行くと、其処にあり/\と、古《イニシヘ》の大嘗会にひき出された標山《シメヤマ》の姿が見えて来る。天子登極の式には、必北野、荒見川の斎場から標山といふものを内裏まで牽いて来たので、其語原を探つて見れば、神々の天降《アモ》りについて考へ得る処がある。標山とは、神の標《シ》めた山といふ意である。神々が高天原から地上に降つて、占領した根拠地なのである。
標山には、必松なり杉なり真木《マキ》なりの、一本優れて高い木があつて、其が神の降臨の目標となる訣である。此を形式化したものが、大嘗会に用ゐられる訣で、一先づ天つ神を標山に招き寄せて、其標山のまゝを内裏の祭場まで御連れ申すのである。今日の方々の祭りに出るだんじり[#「だんじり」に傍線]・だいがく[#「だいがく」に傍線]・だし[#「だし」に傍線]・ほこ[#「ほこ」に傍線]・やま[#「やま」に傍線]などは、みな標山の系統の飾りもので、神輿とは意味を異にしてゐる。町或は村毎に牽き出す祭りの飾りものが、皆|産土《ウブスナ》の社に集るにつけても、今日では途次の行列を人に示すのが第一になつて、鎮守の宮に行くのは、山車《ダシ》や地車《ダンジリ》を見せて、神慮をいさめ申す為だと考へてゐるが、此は意味の変遷をしたもので、固より標山《シメヤマ》の風を伝へたものに相違ない。
標山系統の練りもの類を通じて考へて見ると、天つ神は決して常住社殿の内に鎮座ましますものではなく、祭りの際には、一旦他所に降臨あつて、其処から御社へ入られるもので、還御の際にも、標山に乗つて再び天降りの庭に還つて、其処から天駆《アマガケ》り給ふのである。神社が神の常在地でない事は勿論、其処へ直ちに天降らせ給ふのでもない。大阪天満の天神祭りに船渡御があつて、御迎へ船が出ることなども、祭りの際に、神は他所に降つて、其処から祭場に臨むといふ暗示を含んでゐるのである。
祭礼には必|宵祭《ヨミヤ》を伴ふ風習は、地上に神の常在しない証拠である。渡御に一旦他所に降臨して、其処から祭場に臨まれる事を示すのである。宵祭《ヨミヤ》まつりの形式が仏家に移ると、盂蘭盆の迎へ火を焚く黄昏となる。高燈籠《タカトウロウ》・切籠燈籠《キリコトウロウ》の吊されるのも、精霊誘致の手段に外ならぬのである。かうして愈本祭りとなる。本祭りが済むと、神は高天原へ還られる。此日は、現在、祭りの上に存せない地方もあるので、其の名称の標準とすべきものはない。

     三 祭礼の練りもの

祭礼《サイレイ》の練《ネ》りものには、車をつけて牽くものと、肩に載せて舁《カ》くものとの二通りあるが、一般に高く聳やかして、皆神々の注視を惹かうとするが、中には神輿《ミコシ》の形式を採り入れて、さまでに高く築きなすを主眼とせないものもある。地車《ダンジリ》の類は此である。一体、練りものゝ、土台から末まで柱を貫くのが当然なのに、今日往々柱のない高い練りものゝあるのを見る。練り屋台には、土地によつて様々の名称がある。ほこ[#「ほこ」に傍線]・やま[#「やま」に傍線]などの類は、柱を残してゐる。屋台・地車の類は、柱がない。山車には、柱のあるのも、また無いのもある。
やま[#「やま」に傍線]は、言語自身|標山《シメヤマ》の後である事を、明らかに示してゐる。ほこ[#「ほこ」に傍線]は、今日其名称から柱の先に劔戟の類をつけてゐるのもあるが、柱自身の名であるらしい事は、柳田国男先生の言はるゝ通りであらう。東京の山王・神田祭りに出る山車の語原は、練りもの全体の名ではなく、其一部分の飾りから移つたものらしく思はれる。木津(大阪南区)のだいがく[#「だいがく」に傍線]の柱の天辺《テツペン》につける飾りものも、山車と称へた。また徳島市では、端午の節供に、店頭或は屋上に飾る作りものゝ人形を、だし[#「だし」に傍線]或はやねこじき[#「やねこじき」に傍線]と言ふさうである。木津のだいがく[#「だいがく」に傍線]のだし[#「だし」に傍線]も、五十年以前のものには、薄に銀月・稲穂に鳴子などの作り物を取り付けてゐたといふ。して見れば、出しものゝ義で、屋外に出して置いて、神を招き寄せるものであつたに相違ない。一体、祭礼に様々の作りもの[#「作りもの」に傍線]や、人形を拵へる事は、必しも大阪西横堀の専売ではない。盂蘭盆や地蔵祭りに畑のなりもので様々な作りものをするのを見ると、神にも精霊にも招き寄せる方便は、一つであつたといふ事が訣る。今日こそ練りもの[#「練りもの」に傍線]・作りもの[#「作りもの」に傍線]に莫大な金をかけてゐるから、さう/\毎年新規に作り直すといふ事は出来ないので、永久的のものを作つてゐるが、古くは一旦祭事に用ゐたものは、焼き棄てるなり、川に流すなりしたものである。話頭が多端に亘る虞れはあるが、正月十五日の左義長《トンド》も、燃すのが目的でなく、神を招き降した山を、神上げの後に焼き棄てた、其本末の転倒して来た訣である。
何故作りものを立てるのかと言ふと、神の寄りますべき依代《ヨリシロ》を、其上に据ゑる必要があるからだ。神の標山には、必神の寄るべき喬木があつて、其喬木には更にある依代《ヨリシロ》の附いてゐるのが必須の条件で、梢に御幣を垂れ、梵天幣《ボンテンヘイ》或は旗を立てたものである。たゞ何がなしに、神の目をさへ惹けばよいといふ訣ではなく、神の肖像ともいふべきものを据ゑる必要があつたであらう。神の姿を偶像に作つて、此を依代《ヨリシロ》として神を招き寄せる様になつたのは、遥に意匠の進んだ後世の事で、古くはもつと直観的・象徴風のもので満足が出来たものである。
一体、神の依代は、必しも無生物に限らず、人間を立てゝ依代《ヨリシロ》とする事がある。神に近い、清い生活をしてゐると考へられてゐる神子《ミコ》か、さなくば普通の童男・童女を以て神憑《カミヨ》りの役を勤めさせるので、此場合、これをよりまし[#「よりまし」に傍線]と称へてゐる。
多くは神意を問ふ場合に立てるので、唯、神を招き寄せる為には、無心の物質を以てしても差支へのない訣である。
祭礼に人形を作ることは、よりまし[#「よりまし」に傍線]を兼ねた依代なので、この意味が忘れられると、殆ど神格化せられた人間の像を立てる。神功皇后・武内宿禰・関羽・公時・清正・鎮西八郎などが飾られるのは此為である。

     四 だいがく[#「だいがく」に傍線]とひげこ[#「ひげこ」に傍線]と

さて、日の神の肖像としては、どういふものを立てるか。茲に私は、自分に最因縁深い木津のだいがく[#「だいがく」に傍線]についてお話しをしたい。
京の祇園の鉾を見たものは、形の類似から直ちに、其模倣だと信ずるかも知れぬが、だいがく[#「だいがく」に傍線]と同型のものゝ分布してゐる地方の広い点から見ると、決して五十年百年以来の模倣とは思はれない。先づ方一間、高さ一間位の木枠《キワク》を縦横に貫いて、緯棒《ヌキボウ》を組み合せ、其枠の真中の、上下に開いた穴に経棒《タテボウ》を立てる。柱の長さは電信柱の二倍はあらう。上にはほこ[#「ほこ」に傍線]と称へて、祇園会のものと同じく、赤地の袋で山形を作つた下に、ひげこ[#「ひげこ」に傍線]と言うて、径《サシワタシ》一丈あまりの車の輪の様な※[#「車+罔」、第3水準1−92−45]《オホワ》に、数多の竹の輻《ヤ》の放射したものに、天幕を一重或は二重にとりつけ、其陰に祇園巴《ギヲントモヱ》の紋のついた守り袋を垂《サ》げ、更に其下に三尺ほどづゝ間を隔てゝ、十数本の緯棒《ヌキボウ》を通し、赤・緑・紺・黄などゝけば/\しく彩つた無数の提燈を幾段にも懸け連ねる。夜に入ると、此に蝋燭を入れて、夜空に華かな曲線を漂し出すと、骨髄まで郷土の匂ひの沁み込んだ里の男女は、心も空に浮れ歩く。其柱の先には、前に述べただし[#「だし」に傍線]を挿すのである。
さて此ひげこ[#「ひげこ」に傍線]と称するものに注意を願ひたい。ひげこ[#「ひげこ」に
次へ
全2ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング