女形で、その他一般に女だか化け猫だかわからぬ汚い女形が多かった。
この頃は女形が大体美しくなった。併し美しいということは芸の上からは別問題で、昔風に言えば軽蔑《けいべつ》されるべきものなのである。最近故人になった市川松蔦など、生涯娘形で終るかと思われるくらい小柄で美しい女形であった。だが松蔦の美しさは、素人としての美しさに過ぎなかったのである。こうした美しさは、鍛錬された芸によって光る美しさではなく、素の美しさで、役者としては寧《むしろ》、恥じてよい美しさである。
昔の美しさから謂《い》えば、生地の美しさの見すかされるのではいけない。今の仁左衛門なども、あの素顔のよさがいけないのだと思う。地と一処にその上に作りの美しさ、其以上に鍛錬によっての美しさが見えなければいけない。つまり芸が美しくなれば、姿も美しく見えるといったようなものである。今の女形は概して美しいが、美しくない女形も立派に存在し得るものであることは、日本の歌舞妓の為に大きく言われてよいと思う。そういうことによって、見る方の見物も、見られる方の役者も、芸の上での張り合いが出来る訣《わけ》だ。
[#ここから2字下げ]
写楽の絵に
前へ
次へ
全34ページ中15ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング