動機であった。「花影流水」には菊五郎について大阪へ行き、鴈治郎に止められてその儘大阪に残ったのだと言っているが、そう言う風に伝えている理由もあるのだろう。大阪へは中村宗十郎を頼って行った。その頃は角の芝居が格が一枚上であった。次が中芝居。彼は其後、道頓堀には五つ櫓《やぐら》が並んでいたが、其処に相応に久しくいた。一座は、中村時蔵(後、歌六)市川鬼丸(後、浅尾工左衛門)などであった。さながら後の宮戸座組である。源之助の朝日座でした中将姫の顔を私は見たのを憶えている。中将姫は田之助の芸であったから、謂《い》われがない訣《わけ》でもない。自分の芸に合わなくても、傾倒している人の芸はしたのである。この時、私は尋常三年の頃であったが、「朝顔日記」の浜松非人小屋の段も見た。これは乳母の浅香が悪者と戦って死ぬ場で、これを源之助がし、非人小屋の前で戦っていたのだけが記憶に残っている。中将姫の時、奉納した額の若顔の彼の中将姫のおし絵を、後、当麻寺で発見して懐しかった。源之助はこの朝日座を中心として五年間程居て、二十九年ほとぼりのさめた頃、東京へ帰って来た。不思議なことには、残菊物語で御存じの菊之助が詫《わ》びがかなって大阪から戻って来たのも、やはり二十九年であった。この間に福助はうんと延び、ずうっと後輩の尾上栄三郎(後の梅幸)も相当の役をする様になっていた。
東京に帰って来てした芝居が我々には面白いが、「続々歌舞伎年代記」を見ると、この頃は壮士芝居が相当に纏《まとま》って来て、山口定雄が「本朝廿四孝」をしていた。源之助はここで腰元濡衣、橋本屋の白糸をした。杉贋阿弥の劇評は元来余り讃《ほ》めぬ方であるが、橋本屋の白糸は絶技と讃《ほめたた》えている。源之助のような出たとこ勝負の役者には時によって、つぼ[#「つぼ」に傍点]の外れる所があるが、生世話物《きぜわもの》だと成功する率が多い。生活が即舞台となることが出来るから。そしてこの評判が源之助の芸格を狭める結果になった。遥かの後昭和十二年十一月明治座に久し振りで鈴木|主水《もんど》の芝居が出た。主水が宗十郎、白糸が時蔵であった。源之助は晩年今にも死ぬか死ぬかと思っていたので得意芸を演《や》らせたらばいいにと思ったが、興行者の見徳とでも言うかどうも変なもので、実現はしなかった。五人廻しというものを鈴木主水の劇の中に取り込んである。源之助は通人
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