の役をした。時蔵に白糸をさせ、自分はこの役で出、これが源之助の名残芝居になったのであるが、明治二十九年に自分が橋本屋の白糸をした時を思えば、その間に四十何年の年月が経って、のんきな役者かたぎにも嘸《さぞ》何とか感じたであろう。
さて源之助が大阪から東京へ帰った頃は、歌舞妓《かぶき》芝居では、既に次の時代に移りかけていた。吉右衛門・又五郎(中村)などの「ちんこ」芝居(子供芝居)が出来たのもその頃だ。明治三十年源之助は団十郎の招きに依って、久々に歌舞伎座へ出て、桜痴作の「侠客春雨傘」に出演した。この芝居は助六と同じことを吉原でする芝居で、葛城は福助、丁山というきゃん[#「きゃん」に傍点]な遊女の役を源之助がした。この時のことを伊原青々園が早稲田文学に書いた。当時福助は活歴の影響が満々とあるから品のよい遊女となり、源之助は間違えば宿場女郎というような風に演じた。福助は気位益高く上品になって、世話の遊女は久しくせなくなった。
源之助はその芸格から見れば、いくらでも出世する場合に立ち、彼でなければ出来ぬ役柄も多かったけれども、出発点に禍《わざわい》される所があったと思われる。一体源之助という役者は上方で為込《しこ》んで来た芸を演《や》ると非常によく、また正確である。であるから大阪で源之助がもう少し揉《も》まれて来ればよかったと思う。元来時代物をおろそかにして、その時の出たとこ勝負の世話物に専門(?)になったのが弱点であろう。源之助はもっと、時代物を身を入れてやればよかったと思う。大阪うまれが東京へ来て東京らしくなったというが、大阪へ戻って身につけて来た芸が、ぴったり合っていた。太十の操《みさお》をすると、自由にくだける所があるが、輝虎配膳の老女(越路)などの役は非常に苦しんでいる。彼は顔を見ても悪婆という感じはせず、瞳が黒い上に、上品な顔の輪廓《りんかく》を持っている。田之助亡き後に年少の源之助が妲妃のお百をして評判がよかったというほんの一寸したことから、誤って悪婆役者として一生を過したのだと思う。
源之助に就いては、もう一方に立役の話をせねばならぬ。年をとって女形としては衰えても、立役では綺麗《きれい》であった。源之助が立役をするようになったのは、明治二十九年以後のことで、これも大凡《おおよそ》菊五郎の芸を見ていて、それを模倣している。源之助の立役でよかったのは吉田屋の伊左
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