変出世したものである。
これからだんだん大きな役者の女房役をするようになり、菊五郎・団十郎、先代の左団次の女房として長い間勤めた。その因縁で、この間死んだ左団次とも、関係が深かった。菊五郎の女房役をしていた間は、源之助は自分の身体に合ったものを、自由に出して行けた。団十郎になると、女形は大分辛かったらしい。団十郎が活歴物をするようになり、黙阿弥の裏に居た桜痴が表面に出て来た時代が丁度源之助の青年から壮年の頃であったから、生憎《あいにく》なものと言えるだろう。彼は団十郎に跟《つ》いて行かなかった。活歴は演劇史上の邪道ということになっているが、私は世間の人のいうよりは、この活歴に面白いものを感じている。源之助としては、この時に十分研究すべきであった。彼は、舞台も生活も、昔の儘《まま》の役者型で押して行った。明治十七・八年頃から東京を去る二十年頃迄が、源之助の一番盛りの時であった。源之助の競争者といえば後の歌右衛門、当時の福助であるが、彼は上品ではあり、芸もすなおであるが、色気の点では、源之助の敵ではなかった。であるからその儘で行って居れば歌右衛門よりも高い地位にも上ったであろう。
役者というものは、風格が具《そなわ》って来ると、丁度今の羽左衛門のように、気分で見物人を圧して行く。それは容貌に依ってである。役者は五十を過ぎてから、舞台顔が完成して来る。芸に伴って顔の輪廓《りんかく》が、人生の凋落《ちょうらく》の時になって整って来る。普通の人間なら爺顔になりかけの時が、役者では一番油の乗り切った頃である。立役はその期間が割に長い。羽左衛門が今の歳になって、あれだけの舞台顔を持っているのを不思議がるのもよいが、これは不思議ではない。羽左衛門の顔は少し尖《とが》った顔である。あの人は自分の顔にとげ[#「とげ」に傍点]のあることを最初から認めていたからよいのである。立役はそんな具合で少し頬骨が出て来てもよいが、女の役はもう堪えられない。従って女形は割合に早く凋落する。三・四十ではまだ舞台顔はよくない。よくなったと思うとすぐに終りである。
源之助は盛りの時に大きな、役者としての生活に誤りをしている。源之助が大阪へ行った理由をあらわに言い立てるのはまずいという遠慮もあったかも知れぬが、伊原青々園の仮名屋小梅(花井お梅)を源之助は自分で演じている。しかもこの事件が、彼の大阪行きの一番の
前へ 次へ
全17ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング