である源平を名のった。初舞台が明治三年十二歳で、「夕霧伊左衛門」の吉田屋の娘という役で出た。役らしい役をしたのは、十四歳の時の「明烏」のゆかり[#「ゆかり」に傍点]で、余りにも役が平凡すぎるが――これには声がわりか何か事情があったのだろう。この時、田之助が浦里で出ていた。田之助も、身辺にいたのであるから、源之助の芸は菊五郎の芸ばかりの模倣ということにはならなかったであろうが、事実は田之助には、接触が少かったのである。明治十一年二十歳を越しても、源之助はまだ粒立たぬ役をしていた。団十郎・菊五郎など役者揃いの千本桜の時に、立女形の岩井半四郎の替り役として、木の実の小せん、鮨屋《すしや》のお里をした。これで、始めて出来《でか》したという評判を得た。出来るといっても、容貌が問題になるので、源之助の場合は恐らく容貌や、姿が助けていたろうと思う。その後明治十五年になって、二十四歳で改名して養父の源之助を襲名した。(源之助という名は、中村・三桝《みます》にもあったが、今では皆消えている。)彼は二十四歳から死ぬ迄この源之助で通した。改名するだけの興味を持たなかったと言うより、又する機会もなかったのであろう。大変長い源之助で、丁度大阪の鴈治郎《がんじろう》が若い時の中村鴈治郎から始って、死ぬまで鴈治郎で通したのと同じである。尤《もっとも》、鴈治郎は歌右衛門をつぎ損ったことにもよるのだが……。
明治十二年七月の夏芝居に、五代目菊五郎の弟の坂東家橘――これも働き盛りに死んで、芸は大したことはなかったが、気分のいい役者であったらしい――その家橘が上置きになって、福助(後の歌右衛門)を始め数人の花形が集った。この時、源之助は一番目に妲妃《だっき》のお百という大役をしている。この芝居の殺し場は、女一人で男を殺すなど、役にも変化があり、最後まで悪人のはびこる芝居である。それを二十を越したばかりの源之助がお百になって出るというのは、容貌や姿を認められてなったものと言われている。芝居道では何といっても家柄が大事で、沢村の中でも源之助はわるい名でないが、何となくりゅうとした印象のない名になっていた。源之助は沢村宗家の印を伝えていたというが、此は後、宗十郎に譲った。源之助は沢村の流れでは重い名であるが、この妲妃のお百をした時が、殊に役の一番いい、幸福を予約せられた時代であった。相手役は家橘であるから、大
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