いた女というものが、乱暴してみせるということでもよい。又立廻りはしなくても、殺人だとか、男を自在にあやつるとかいうことでもよい。とにかく自分たちの胸が透けばそれでよいので、そういう正義が武道の範囲に入るのである。こういうところから毒婦・悪婆というものも出て来るのである。切られお富の科白《せりふ》「お家のためなら愛敬すて憎まれ口も利かざあなるまい」というのも、女形としてあるべからざることを演じるのも、忠義のためだから為方《しかた》がないという断りをする。ここで毒婦をしても、常に女形本来の性質である善人の反省に還《かえ》っている。
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悪婆というと、その文字面は老人のことのようだが、若い女のすることなので、たんかをきったり女白浪《おんなしらなみ》になったり、かたりやつつもたせをしたりする。元来上方の花車方、江戸の婆方にある性質で老人のものには違いないが、それが永い間の習慣で語だけ残っても、若い役になったのである。
これは花車がやりてになるのと同様で、やりてとさえ言えば、廓茶屋《くるわぢゃや》の引手婆を意味するようになったが、もとは若い女房であったのである。これらの変化も併し、そう古くからあった語ではないだろうとは思う。
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男の沢山いる中で、それらの男を翻弄《ほんろう》する女が出て来て、これが毒婦・悪婆の訣《わけ》だが、そうは謂《い》っても毒婦・悪婆の範囲は広いのである。例えば、源之助がよく演じた「鬼神のお松」(初演明治二十六年)の様な英雄型の女も毒婦・悪婆だが、又「蟒《うわばみ》およし」の様な少しも悪いところのないのも悪婆で、「女団七」のお梶の様なのも善人なのだが、やはり悪婆の型に入るし、実に多種多様なものである。田之助・源之助などがすれば、今までに型の決っていない役は、毒婦型・悪婆型になってしまうという傾向は非常に顕著である。
源之助は娘役をしたことが少く、その点大阪の魁車と同様であった。魁車は十八くらいから女房役をして、それで評判を取った人である。
でも若い時にはよくしたのであって、明治十七年「手習鑑」の道明寺の場の苅屋姫で評判をとったし、明治二十四年にした「妹背山」のおみわの役などは、饗庭篁村が「源之助のおみわ本役とて座の光をまし舞台も広く思はれたり 云々《うんぬん》」と批評している。四十代以後の源之助にはありそうにも思
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