もの、稀《まれ》には農村生活もあるが)の四つで、これだけで役者のものの考えというものは出来ていたのである。
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元来善人ばかりの女を出している歌舞妓芝居だが、時代物・世話物のうちには、悪の分子を持った女が古くから少しずつは出ている。大名の家庭に於ける継母・後室のような役は安っぽい役者には出来ないので、自ら相当地位のいい役者がするのだが、例えば「※[#「鹿+鳥」、273−下−27]《ひばり》山古跡松」の中将姫をいじめる岩根御前などは普通立女形の役である。又「浅間岳面影双紙」の時鳥という浅間家の妾《めかけ》が、瞿麦《なでしこ》という老女に殺されるのだが、その時鳥を菊五郎がすれば、瞿麦は団十郎が勤めるというようなものである。悪人の女を含まぬ歌舞伎《かぶき》芝居も、ずっと昔からある悪女を改めて善人にして出すということは出来ないことであるし、又そういう妬婦《とふ》のあることによって善人の女が更に引立つのである。お家物になっても、お家騒動の原因は多く女で、例えば後妻が夫の眼をぬすんで男に会うところを継子に見つけられ、それからいろいろの悪いことをするというようなものは昔からある戯曲上の類型であり、説経|浄瑠璃《じょうるり》にもあるもので、これは変えられない。それでそういうものが繰り返されているうちに或特別な女の性根が出来る。それがまあ「女武道」になるのである。私は源之助は一番「女武道」にかなった役者であると思う。例えば「ひらがな盛衰記」のお筆のような役は割にしどころの少い役で、十分発揮出来ない憾《うら》みはあったにしても、源之助にうってつけのものだと思う。
「女武道」は正義で、又時としては武芸に達し、容貌もいい中年の女という立女形の役である。女形が勢力を持って来て、芝居の中心になって、主役をしなければならなくなった場合、「女武道」の必要が起って来るのである。又昔の芝居は仮りに午前に時代物をかけたとしたら、午後は世話物をするという風だから、時代物が武道なら、世話物の方でも武道を出したいという要望が起って来る。こうして世話物の「女武道」としての「毒婦・悪婆」というものが出来て来る。
芝居の正義というのは道徳的な本道の正義でなくともよいので、何にしても鬱積《うっせき》した気持ちを打ち払う様な華々しいものが、正義になるのである。今までおとなしい一方のものにきめられて
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