葉ぶりの力の藝術を、都會人が望むのは、最初から苦しみなのであります。けれども、絶對に否定してしまふことも、出來ないだらうと思ひます。
日本では眞の意味の都會生活が初つて、まだ幾代も經てゐません。都會獨自の習慣・信仰・文明を見ることが出來ない、といふことは、かなりた易く、斷言が出來ます。そこに根ざしの深い都會的文藝の、出來よう訣がありません。日本人ももつと、都會生活に慣れて來たなら、郷土(郷土の譯語を創めた郷土研究派の用語例に據る)藝術に拮抗することの出來る、文藝も生れることになるでせう。まづ、それまでは氣長く待ち、而も、その發生開展を妨げない樣に、するだけの覺悟は必要です。都會人なるわたしどもはかういふ方向に、力の藝術を掴まねばならない、といふ氣がします。
こゝに、大阪と東京との比較が、必要になつてきました。三代住めば江戸つ子だ、といふ東京、家元制度の今尚嚴重に行はれてゐる東京、趣味の洗練を誇る、すゐ[#「すゐ」に傍点]の東京と、二代目・三代目に家が絶えて、中心は常に移動する大阪、固定した家は、同時に滅亡して、新來の田舍人が、新しく家を興す爲に、恒に新興の氣分を持つてゐる大阪、その爲に、野生を帶びた都會生活、洗練せられざる趣味を持ち續けてゐる大阪とを較べて見れば、非常に口幅つたい感じもしますが、比較的野性の多い大阪人が、都會文藝を作り上げる可能性を多く持つてゐるかも知れません。西鶴や近松の作物に出て來る遊冶郎の上にも、此野性は見られるので、漫然と上方を粹な地だといふ風に考へてゐる文學者たちは、元祿二文人を正しう理會してゐるものとは言はれません。其後段々出て來た兩都の文人を比べても、此差別は著しいのです。此處に目をつけない江戸期文學史などは、幾ら出てもだめなのです。江戸の通に對して、大阪はあまりやぼ[#「やぼ」に傍点]過ぎる樣です。
眞淵の「ますらをぶり」も、力の藝術といふ意味でなく、單に男性的といふ事を對象としてゐるのではなからうか、と思ひます。田舍人ばかりが、力の藝術に與ることが出來て、都會人は出來ない相談だと迄、わたしは悲觀して居ません。曲りくねつた道に苦しみ拔いて、力の藝術に達した都會人も、比較的質に於て倖はれて生れた田舍人と、同じく、「ますらをぶり」の運動に與ることは出來るのです。あなたも、此點は否定せられまいと思ひます。さすれば、都會人が、複雜な、あくどい
前へ
次へ
全6ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング