もころ[#「もころ」に傍線]男《ヲ》は、同等・同格・同輩の男と言ふ風に、大和辺では固定して居る。が、此は、卜の卦《ケ》の示現する様式の一つらしい。将来の運命や、遠処の物や、事情の現状を、其まゝ見る事と思はれる。旅泊の鎮魂歌のあたりの矚目と、遠地の郷家の斎戸の様とを兼ねて表してゐるもので、叙景と瞑想風な夜陰の心境望郷の抒情詩とが、此から分れ出ようとする複雑な、古式の発想法である。
私ははやす[#「はやす」に傍線]と言ふ語について、別に言うて居る。祇園林《ギヲンバヤシ》・松囃子・林田楽《ハヤシデンガク》などのはやし[#「はやし」に傍線]が、皆山の木を伐つて、其を中心にした、祭礼・神事の牽《ひ》き物であつた。山《ヤマ》・山車《ダシ》の様な姿である。此牽き物に随ふ人々のする楽舞がすべてはやし[#「はやし」に傍線]と言はれたのだ。「囃し」など宛てられる意義は、遥かに遅れて出来たのである。山の木を神事の為に伐る時に、自分霊を持つものとして、かう言うたのである。「七草囃し」と言ふのも、春の行事に、嘉詞を用ゐるのだ。大根・人参の茎を、切り放すことを、上野下野辺で、はやす[#「はやす」に傍線]と言ふのも「さぬのくゝたち」の歌の場合の、古用例だとは言へないが、おもしろい因縁である。
ふる[#「ふる」に傍線]の内容の深いやうに、はやす[#「はやす」に傍線]も木を伐り迎へ、鎮魂するまでの義を含んでゐた。其が後世は、更に拡つて行つたのだ。はやす[#「はやす」に傍線]わざは、初めから終りまで妹のするのではない様だ。が、大嘗の悠紀・主基の造酒児《サカツコ》なる首席巫女の、野の茅も、山の神木も、まづ刃物を入れるのを見れば、さうした形も、想像出来る。

       霊の放ち鳥

漢土の天子諸侯の生活には、林池・苑囿《ゑんいう》を荘厳するのが、一つの要件であつた。さうして、奇獣を囹《ヲリ》にし、珍禽を放ち飼うた。此先進国の林池の娯しみは、我が国にも模倣せられた様に見える。蘇我氏の旧林泉の没収せられたものらしい飛鳥京の「島の宮」は、泉池・島渚の風情から出た名らしい。而も、此が代表となつて、林苑を「しま」と言ふ様になり、又山斎を之に対して「やま」と言ふ様になつたらしい。我が国造庭術史上に記念せられるはずの宮地であつた。
其離宮に居て、摂政太子として、日並知皇子尊と国風の諡を贈られたのは、草壁皇子である。其薨後、其宮の舎人等の吟じたと思うてよい二十三首の挽歌は――人麻呂の代作らしい――此島の宮と、墓所|檀《マユミ》の岡との間を往来して、仕へる期間も終りに近づいた頃に謡うた鎮魂歌らしいが、島の宮の池の放ち鳥を三首まで詠じてゐる。
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島の宮、上の池なる放ち鳥、荒びな行きそ。君まさずとも
み立《タ》たしの島をも家と棲む鳥も、荒びな行きそ。年かはるまで
塒《トクラ》たて飼ひし雁の子、巣立ちなば、檀《マユミ》の岡に飛び帰り来ね(巻二)
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と鳥に将来の希望を述べてゐる。此は皆、皇子尊の愛玩せられたものだから、其によつて感傷を発したものと言うて了へば、其までゞある。が、天智の崩御の時も「わが大君の念ふ鳥立つ」と、湖水の游鳥を逐ひ立てぬ様に心せよ、と言ふ風な皇后の御歌がある。鳥に寄せて悲しみを陳べた歌は、他にも多い。
此は唯遺愛の鳥だからと言ふやうに見えたが、尚古い形から展開した発想法であつた。鳥殊に水鳥は、霊魂の具象した姿だと信じた事もある。又其運搬者だとも考へられた。而も魂の一時の寓りとも思うて居た。事代主神がしてゐたと言ふ「鳥之遨游《トリノアソビ》」も、ほむちわけ[#「ほむちわけ」に傍線]の鵠《クヾヒ》の声を聞いて、物言はうとしたのも、皆水鳥を以て、鎮魂の呪術に使うた信仰の印象である。やまとたける[#「やまとたける」に傍線]の白鳥――又は八尋白千鳥に化したと言ふのも霊魂の姿と考へた為であつた。鵠《クヾヒ》・鶴・雁・鷺など、古代から近代に亘つて、霊の鳥の種類は多い。殊に鵠と雁とは、寿福の楽土なる常世《トコヨ》国の鳥として著れてゐた。雁は、仁徳帝とたけし・うちの[#「たけし・うちの」に傍線]宿禰の唱和だと言ふ、宮廷詩|本宜《ホギ》歌の主題となつた。雁が卵《コ》を生んだ事を以て、瑞祥と見たのである。島の宮の雁の子と言ふのは、名は雁と称へてゐるが、名だけを然《シカ》呼んだのであらう。恐らく鴨と雁との雑種で、家鴨に近いものではなかつたか。平安朝にも、雁の子を言つてゐる。鴨の卵らしい。島の宮のも、寿を祝《ほ》ぐ為の目的から、伝来どほりの名を負せた代用動物だと定めてよい。
常にも水鳥を飼うて、此を見る事で、魂の安定をさせようとしたのだ。臨時には篤疾・失神・死亡などの際に、魂ごひ[#「魂ごひ」に傍線]の目的物とせられたのである。出雲の国造の呪法では、鵠《クヾヒ》が用ゐられた。蘇我氏の雁によるのと相対してゐる。国造の代替りに、二年続けて「神賀詞《カムヨゴト》」奏上の為に参朝した。其貢物は皆国造家の「ことほぎ」料《シロ》であるが、其中、白鵠《シラトリ》の生御調《イケミツギ》は、殊に重要な呪物であつた。鵠の「玩び物」と称へてゐる。此は、鵠に内在する威霊を、聖躬に斎《イハ》ひこめようとするので、其を日常眺めて魂の発散を圧へようと言ふのである。鵠の白鳥も次第に他の白羽の鳥を代用する様になつて来た。鷺などが、其である。
雁がね[#「雁がね」に傍点]・たづ[#「たづ」に傍点]――鵠・鶴・鴻に通じた名――がね[#「がね」に傍点]と特別に、其|鳴《ネ》を注意したのは、其高行く音に聴き入つた処から出たのである。鳴く音の鳥として遂には、之鳴《ガネ》と言ふを接尾語風に扱うて、たづ[#「たづ」に傍点]や雁その物を表す様になつたのであらう。島の宮の水鳥も、古義の玩び物としての用途と漢風の林池の修飾とする文化模倣とが調和して、原義は忘れて行つたものである。其で、歌の上もやはり、さうした時代的合理化が這入つて来て「念ふ鳥」だの遺愛の「放ち鳥」などゝ言ふ風に、表は矛盾なく、形を整へてゐるが、ほぎ歌・鎮護詞《イハヒゴト》・魂ごひ歌などの展開の順序を知つてかゝると、長い年月の変化が語られる。後世人の理会力や、感受性に毫も障らぬ様に整頓せられてゐる、詞章・歌曲の表現法が、思ひもかけぬ発生過程を持つてゐる事に思ひ到るであらう。

       すめみま

記・紀すでにさうした解釈を主として居り、後世の学者又其を信じてゐる所の皇孫即すめみま[#「すめみま」に傍線]とする語原説は、尠くとも神道の歴史の第二次以下の意義しか知らぬものである。続紀《シヨクキ》宣命などを見ても、みま[#「みま」に傍線]は聖躬の義で、宮廷第一人なる御方の御身――即、威霊《マナ》の寓るべき御肉身――の義であつた。其が、宣命の原型からあつた形を二様に分岐して、記・紀に趣く伝承では、新しい合理化によつて、聖孫《アメミウマゴ》の義としたのだ。其一方を継いだ宣命の擬古文では、聖躬《スメミマ》とした。だから、第二人称の敬称みまし[#「みまし」に傍線]は、此と関係のあるものに違ひないと思ふ。
此みま[#「みま」に傍線]或はおほ・みま[#「おほ・みま」に傍線]なる御肉身とまな[#「まな」に傍線]なる威霊とは、常に放しては考へられないものであつた。此外来魂の名が、最古く「ひ」であつた。其がすべての霊的のもの[#「もの」に傍線]の上に拡つて行つた後、分化した。原形は「日《ヒ》」となり、変形したものに、直日・禍津日・つくよみ・山つみ・海《ワタ》つみなどのひ[#「ひ」に傍線]・み[#「み」に傍線]となつて、かみ[#「かみ」に傍線]に歩みよる筋路を作つた。此ひ[#「ひ」に傍線]を躬に触《フ》らしめ得た方が、ひのみこ[#「ひのみこ」に傍線]であつた。此ひ[#「ひ」に傍線]を継承せられるのが、大倭の君であつた。
他の邑君・村酋の中にも、此信仰は、ある部分共通し、又次第に感染して行つた。かうした場合、此をよ[#「よ」に傍線]と称へた。後にひ[#「ひ」に傍線]が固定すると、よ[#「よ」に傍線]が代用せられ、更によ[#「よ」に傍線]の意義が、よ[#「よ」に傍線]の截り替への時期を意味する様になつて、一生一代の義になつた。でも、荒世昭《アラヨノミフ》・和世昭《ニゴヨノミフ》など言ふ用例を見ると、よ[#「よ」に傍線]には魂の義が熟語として残つてゐたのだ。さうすると、身を意味するみ[#「み」に傍線]と言ふ語も、生民を意味するひと[#「ひと」に傍線]といふ語も、等しく威力を寓した肉体をさすものである。
我々の万葉びとの生活を書いた本旨は、民人の生活は邑々の酋君の生活の拡張であり、日のみ子[#「日のみ子」に傍線]の信仰行事の、一般化であると言ふ事である。ひと[#「ひと」に傍線]は確かに、ある選民《センミン》である。「と」の原義は、不明だが、記・紀を見ても、神と人との間のものゝ名に、常に使はれてゐる。此ひと[#「ひと」に傍線]の義が、転化して国邑の神事に与る実行的な神人の義になつた。神意をみこともち[#「みこともち」に傍線]て、天の直下の世界――天の下――に出現せられた君の為に、其|伴人《トモビト》として働くものが、ひと[#「ひと」に傍線]だつたのである。だから近代まで、村人は、必ひと[#「ひと」に傍線]とならねばならなかつた。
青人草・天のますひと[#「天のますひと」に傍線]の伝承は、記・紀以前語部の合理化を経てゐる。が、とかく「ひと」と言ふ観念に入るものは、神事に奉仕する為に、出現するものゝ義に過ぎなかつた。沖縄語は偶然、此を傍証してゐる。神よりも霊を意味するすぢ[#「すぢ」に傍線]・せぢ[#「せぢ」に傍線]・しぢ[#「しぢ」に傍線]など言ふ古語は、国君の義ともなつた。其が、名詞化の語尾aを採ると、すぢゃあ[#「すぢゃあ」に傍線]として、人間の義となる。神事の第一人から転じて、すべての神人に及んだのである。
わが古代のひと[#「ひと」に傍線]も其で、神人の長なる君からの延長である。此ひと[#「ひと」に傍線]の内に、性によつて区別があつた。こ[#「こ」に傍線]は男性であり、め[#「め」に傍線]は女性であつた。此は、き[#「き」に傍線]とみ[#「み」に傍線]との対立と同様であらう。君は、常に威霊を受けて復活する。さう言ふ信仰から、前代の君は、後継の君と毫も変らぬ同一人であつた。此思想は、天照大神に対して、御歴代の神及び君が、すめみま[#「すめみま」に傍線]だ――第二義の――とせられてゐるのにも現れてゐる。此が最合理的に、将又《はたまた》神学化した表現は、日並知皇子尊の殯宮の時の歌(人麻呂)にある。
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天地のはじめの時の(山田孝雄氏説)……神はかり はかりし時に、天照らすひるめ[#「ひるめ」に傍線]の命、天をばしろしめすと、あしはらのみづほの国を、天地の国よりあひのきはみ、しろしめす神の命と、天ぐもの八重かきわけて、神《カム》くだりいませまつりし、高ひかる日の皇子は、飛鳥《アスカ》の浄見《キヨミ》原に、神《カム》ながらふとしきまして、聖祖《スメロギ》のしきます国と、天の原岩門を開き、神《カム》あがり、あがり往《イ》ましぬ。(こゝまでは、天武天皇の御事)
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天武は、大神の直系として扱はれてゐる。天地のはじめの時の、第一のみこともち[#「みこともち」に傍線]なる君も、信仰上には区別のないわけだ。
此が下々にも及んでゐる。国の組織が出来てからは、大倭国内の豪族は、皆|大身《オミ》を意味する敬称を以て、君から遇せられた。さうした人々の間にも普通になり、大倭宮廷の諸部民なるかきべ[#「かきべ」に傍線]、大身の部民なるともべ[#「ともべ」に傍線]にも、一貫して行はれた。邑国の神事を行ふ人々は、をとこ[#「をとこ」に傍線]であり、之に対して奉仕する巫女はをとめ[#「をとめ」に傍線]と称せられた。

       をとめ・をとこ

をとめ[#「をとめ」に傍線]・をとこ[#「をとこ」に傍線]には、万葉では未通女・壮夫
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