、愈進んで来た。女性の歌は常にかうして、男の歌を予期してゐるのであつた。万葉を見ても、女性の作に、殆ど一つとして相聞贈答の意味を離れたものゝない事実は明らかである。女歌に特殊な境地のある事は固より、其発想法には、伝習的な姿が見られるのは、尤である。
女歌は、異性を対象とする関係上、すべて恋愛式発想法によつて居る。だから、簡単に真の恋愛的交渉を歌から考へ出す事は出来ない。だから万葉には、相聞といふが、恋歌とは記さなかつた。古義によつて言ふこひ歌[#「こひ歌」に傍線]は、求婚する男のするものであつた。其が女歌にも入つて来たが、その発想法の上には、真仮の区別のないものが多い。こひ歌[#「こひ歌」に傍線]と見えるものは、大抵前代の叙事詩から脱落したものが多かつた。此が民謡として行はれた。
男のこひ歌[#「こひ歌」に傍線]に対しても、女歌は従順でないものが多い。或は外柔内剛なうけ流しが多かつた。相聞・挽歌・民謡などにある女歌らしいのゝ情熱的なものも、大抵古詞以来の類型か、叙事詩の変造か、誇張した抒情かである事は、早く言うた。唯、其間に真実味の出て来て居るのは、後朝の詞や、見ず久《ヒサ》の心を述べる男の歌に対《こた》へたものである。此とて果して、作者自身の物か、保護者又は後見婦人の歌か知れないのが多い。家持に与へた叔母大伴[#(ノ)]阪上[#(ノ)]郎女の歌には、女大嬢の心持ちになつて作つたものが多いのであらう。又、大嬢の家持に答へた歌と言ふのも、郎女の代作と考へられぬではない。
とにかく、唯の相聞態度では、男の心に添はない事を意識した作も、後ほど出て来て居る。
でも、中臣宅守・茅上郎女の歌などは、恐らく、其近代の情史的創作であらうと述べたとほり、こひ[#「こひ」に傍線]歌《ウタ》らしくないものである。真の意味の恋歌《コヒカ》は万葉末期に出て来たと言うてよからう。前代の物で、こひ歌[#「こひ歌」に傍線]らしく見えるものは、大抵魂ごひの歌或は、旅中鎮魂の作だつたのである。
女歌は恋愛発想による外、方法はなかつたのである。巫女としての久しい任務が、かう言ふ変態な表現上の論理を形づくらせたのであつた。
短歌様式は、殊に「女歌」に於て、発達したものと見る事は正しいと思ふ。宮廷生活においては、女歌のもて囃される機会が多かつた。一つは踏歌宴遊に、一つは風俗歌会――歌会の原形――などに、男方を緘黙させる様な才女が、多く現れたのである。春秋の物諍ひを判じた額田女王の長歌の如きも、さうした場合に群作を抜いた伝説のあつたものであらう。一人だけ、歌で判じたのではない。真の女性の作物は、長歌としても、十聯以上に及ぶものは古くから稀であつた。そこに、鋭く統一せられて出て来るものがあるのである。阪上郎女の如きは、長い作も創作してゐるが、此は奈良末の復古熱から出た擬古文に過ぎない。此人などは、恐らく女として漢文学を学んだ早い頃の人らしく思はれるが、平安中期までも、女は、唯古風を守るばかりであつた。
併《しか》し其は極めて稀だつた。宮廷及び貴族の家庭に仕へた女たちは、専ら万葉仮名の最《もつとも》標音的なものを用ゐて、主君・公子女の言行を日録して居たであらう。それが次第に草体になつて、平安京の女房の仮名文学に展開して行つたのであらう。かうした女官等の作物は、記録せられずに消えたものが多いのであらう。女歌は、多く口頭に伝誦せられて、多くの作者知らずの歌となつたと見てよい。此等の中に、幸に分類せられて書き残されたものが、巻十或は七の中などには、多いのであらう。かうした種類が、平安朝にも多かつた。新撰万葉・古今集・古今六帖などの無名の作、又は平安の物語・日記によくある、出処不明の引き歌は、大抵其当時々々に喧伝せられた、即興歌なのであらう。
平安の宮廷では、日常神事に与る者ほど、地位低くなつた。采女は下級の女官となり、奈良朝までの采女は、女房として高く位づけられた。けれども巫女であつた姿は留めて居た。宮廷貴族内庭の私的な事務に与り、主公に直接なる補助役・弁理者となり、訓化者となつた為である。かうした為事は、万葉時代にはまだ、巫女としての宮女の勤めであつた。女房の日記が、旧事・歌物語の外に、私事を多く交へる様になつて、段々、女房文学が栄えたのである。自作をも書きとめるやうになつたものを、後人――或は後には当時の人も――が歌だけを抄出したのが、女房家集である。其他、物語を抜き、人物事件や年中臨時の行事に関するものを書き出したのもあつて、物語・日記・有職書などが現れる様になつた。皆女房日記の内容であつたものだ。
かうした家集の中には、誇張や、衒ひや、記憶違ひなどもあるはずである。其に第一、対人関係は、後人の発想法とは異なるものが多い。万葉以前からの「女歌」の論理を考へないでは、男女関係の誤解せられる様なものが多い。とにもかくにも平安の女房文学の中から、歌は放しては考へられない。前代の風俗《フリ》・歌《ウタ》を中心に綴つた説話記録が、歌物語となり、自分の身辺の応酬を記した部分が日記歌として行はれるやうになり、其が更に単独な物語や、家集・日記・世代歴史《ヨツギモノガタリ》を生む様になつた。時世が移つて、女房の教養が浅くなると、女歌は固より、すべての女房文学は、隠者階級の手に移つて了ふ。平安朝末のあり様である。此間の「女」の時代は実は、奈良以前からの、長い宮廷巫女生活の成果である。
妹の魂結び
家々の成女戒を経た女たちは、巫女である。其故、呪術を行ふ力を持つてゐた。愛人や、夫の遠行には、家族の守護霊でもあり、自身の内在魂でもあるもの[#「もの」に傍点]を分割して与へる。男の衣装の中に、秘密の結び方のたまの緒[#「たまの緒」に傍線]で結び籠めて置く。さうして、旅中の守りとした。後には、女の身にも男の魂を結びとめて置く様になつたのだ。
此緒は、解くと相手の身に変事が起るのである。だから互に、物忌みを守つて居ねばならぬ。其たまの緒[#「たまの緒」に傍線]に限らず、霊物の逸出を禦《ふせ》ぐ為に結び下げて置くものを、ひも[#「ひも」に傍線]と言ふ。此は外物の犯さぬ様に、示威するものらしい。紐は、身にとり周らさずともよい。懸けるかつけるかしてあればよい。此変化したのが、いれひも[#「いれひも」に傍線]であり、したひも[#「したひも」に傍線]なのである。こまにしき[#「こまにしき」に傍線]・からにしき[#「からにしき」に傍線]など、紐の枕詞に近い誇称は、悪を却ける為の、讃辞であつたらしい。必しも、ひも[#「ひも」に傍線]の古義には、下|佩《オ》びを直に指す処はない。
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難波津に御船|泊《ハ》てぬと聞え来ば、ひもときさけて、立ちはしりせむ(巻五)
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とある憶良の歌は、恋人を待ち得た性の焦燥を言ふのではない。此は、長者の霊の游離を防ぐために、男もすることになつてゐたのだ。
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こま錦 ひもとき易之《カハシ》 天人《アメヒト》の妻どふ宵ぞ。我も偲《シヌ》ばむ(巻十)
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の歌なども、直に閨《ねや》ごとの予期を言うてゐるのではない。
易之は「かへし」と訓むべきなのかも知れぬ。遠く別れて居た者の、我が土地――難波津は、大和の国の内と観じたのだ――家に還り来ると、物忌みは解除せられるのだ。其双方の身にぢかにつく下袴・裳などにした物が、ふもだし[#「ふもだし」に傍線]の禁欲衣などにもつく処から一つに考へられて行つたのだ。だから必しも、紐が下佩びは勿論、貞操帯の意義でもなかつたのである。記・紀から見えるひも[#「ひも」に傍線]の信仰は、もつと広いものであつた。妻・愛人の結《ユハ》ひつけた守護霊の籠められた紐の緒が、ついて居る以上、此に憚る風も生じたのである。下袴の紐をさう言ふ欲望の物忌みの標とする考へが行はれてゐた訣ではない様だ。
かう言ふ訣で、旅行者の歌には、妻の魂の逸出せぬ様にとの考へで、此ひも[#「ひも」に傍線]を問題にするものが多かつたのだ。其が、妻を偲ぶ歌心を展開して来たのである。又同時に、郷家の寝床に、我が魂の一部は、分離して留るものと信じてゐた。其為に家や床や枕を言ふ風が出来て居た。
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たま藻刈る 澳べは漕がじ。しきたへの枕のあたり 忘れかねつも(巻一)
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此宇合の歌なども、今日は頻《しきり》に家の我が枕のある床の様子が、目に浮んで思ひ去りにくい。かう言ふ時は、凶事があるものだと、舟行を恐れてゐるのである。
魂はやす行事
東国では、旅行者の魂を木の枝にとり迎へて祀る風があつたらしい。此も妹《いも》のする事だつたらしい。此をはやし[#「はやし」に傍線]と言ふ。
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あらたまの塞側《キベ》のはやしに、汝《ナ》を立てゝ、行きかつましゞ。いもを さきだたね(巻十四)
上[#(ツ)]毛野さぬ[#「さぬ」に傍点]のくゝたち折りはやし、我は待たむゑ。言《コト》し来《コ》ずとも(巻十四)
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きべ[#「きべ」に傍線]は、村の外囲ひの柵塁の類である。あらたま[#「あらたま」に傍線]は枕詞。遠江|麁玉《あらたま》郡辺で流行した為に、地名を枕詞にして「き」を起したのだ。きべ[#「きべ」に傍線]は地名説はわるい。村境で、魂はやし[#「魂はやし」に傍線]の式を行ふのである。木を伐つて、此に魂を移すからはやし[#「はやし」に傍線]である。処が、此はやす[#「はやす」に傍線]には、分霊を殖《フヤ》し、分裂させる義があるのだ。「旅出の別れの式に、妹よ。汝《ナ》を立ち見送らしめては、行き敢へまじ。妹よ。先だち還れ」。此に近い意だらう。後の者は、上野の民謡故、さぬ[#「さぬ」に傍線]――又、さつ[#「さつ」に傍線]――なる木を言ふ為に、地名の佐野にかけたのだ。茎立《クヽタ》ちは草の若茎と考へられ易いが、木の萌え立ちの心《シン》の末になる部分だらう。其を折つて魂はやす[#「はやす」に傍線]のである。――をる[#「をる」に傍線]はくり返す義か――「旅の人の伝言《ツテゴト》よ。其は此頃来通はず。かうして続くとしても、我は、魂はやし[#「魂はやし」に傍線]によつて、迎への呪ひをして居ようよ」。かう説くのが、ほんとうだらう。すると、
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家場中《ニハナカ》のあすは[#「あすは」に傍線]の神に 木柴《コシバ》さし、我は斎《イハ》はむ。帰り来《ク》までに(巻二十)
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すると、此こしば[#「こしば」に傍線]も、神に奉ると言はぬ処から見ると、霊を対象にしたのだ。あすは[#「あすは」に傍線]の神は竃神だから竃の事にもなる。竃に――或はかまど[#「かまど」に傍線]の前方《カミ》にか――はやしの木柴(?)を立て定めて、旅人我の魂を浄め籠めて置かう。帰り来る時まで――ひきよせられて還り来る様にの意か――此歌、旅行者自身の歌と伝へたのは、誤りであらう。此歌の意も、神を斎《イハ》ふと言ふ様にならないでよく訣《ワカ》る。又、幼稚だが、極めて近代的なと思はれてゐる、
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まつのけの なみたる見れば、いはひとの 我を見おくると、立《タ》たりし もころ(巻二十)
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と言ふのも、道中に松の並み木を見た歌として鑑賞出来ぬ様になる。靡並而有《ナナミタル》ではない様だ。松の木の靡き伏《ナ》すばかり、老い盛え木垂《コダ》るを見るに、松の木の枝の靡き伏す斎戸《イハヒト》に――斎殿か、家人《イヘビト》又は斎人《イハヒビト》か――旅の我を後見《ミオク》る――家に残つた人の遠方から守らうとして、立てたりしはやし[#「はやし」に傍線]の松の、其まゝの姿である。家の魂の鎮斎処の、我が為のはやし[#「はやし」に傍線]の木の勢盛んにある様の俤と信じられる。さすれば、家なる我が魂は、鎮り、栄えて居るのだ。かう言ふ旅人の「枕のあたり忘れかねつも」一類の不安は、旅泊の鎮魂の場合に起り勝ちなのであつた
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