ものには、黒人系統の心境が見える。而も平凡な生活から普遍の寂しさに思ひ到つてゐたらしい処は、近代文学に似てゐる。

     一〇 万葉学に一等資料のないこと

こゝまで、私の議論について来て頂いた方々に、私は、かう言ふ信頼を感じて、多分さしつかへがないであらう。私は、何も珍しいことを言ひたがつてゐるのではない。唯平安中期の初めにすでに、万葉の各方面の本旨が誤解せられて居た。或は正しく伝へられて居たにしても、平安末期以後の歌学者の曲解が加つて、長く純粋な元の意義が隠れて了うた事を信じてゐるが故に、従来の、源・藤二流の六条家の直観説を、整頓調節するだけでは、満足出来なかつた事が訣つて貰へる事と考へる。
言はゞ、此集に関しては、真の一等資料と言ふべきものが欠けてゐる。古今序の外は、何れも/\単なる学統の権威を保つ為の衒《てら》ひに過ぎないものであつた。かうした非学術的な後世歌学者の準拠を、我々の準拠とすることは、到底出来ない事なのである。かうした場合、万葉の研究は万葉自身を解剖するか、万葉前後の文壇或は世間の伝承を参酌しての研究が、或は今までの窮塞を通ずる事になるであらう。かうして、私は王朝末以来の学者が行うた仮説以外に、もつと正しいに近い推定を置く事が出来る。さうして又、其が新しい時代の幾多の補助学を負ふ者の権利であると信じてやつて来た事を、快くうけ容れて下さる事と信じる。くり返して言ふ。万葉集研究の徒にとつて迷惑な事は、何よりも、一等資料のない事である。かうした場合、万葉自身の分解に加ふるに、文学史的見解、及び民俗学的推理の業蹟が、大きなものであることを悟らねばならぬ。
私は、万葉人の歌を作り又、伝へた心持ちを考へた。さうして、其が従来の考へ方では、受納しきれない部分の多い事を説いた。或は倖にして、文学意識や、態度の発生した形を覓め得たかも知れない。さうしてうた[#「うた」に傍線]及び、其同義語の本義と転化とを示し得た様にも感じてゐる。さうして或は、宮廷と民間とにおける文学の相違及び其歩みよりの俤を、読者に描いて頂けたかも知れない。さうして尚幾分でも、長い万葉集時代における中心推移を髣髴せしめ得たかも知れぬと、微かな自得を感じてゐる。私は常に、老いた対象を捐てゝゐる。理会に叶ひ難い文章も、若い感受性に充ちた朗らかな胸を予想してかゝつてゐるのである。

     一一 万葉びとの生活

此語は、私が言ひ出して、既に十五年になる。けれども一度も、行き徹つた論を発表しないで来た。私は今は、其輪廓だけでも書き留めておきたい。私の言ふ万葉人なる語は、万葉の中心となつてゐる時代即、飛鳥末から藤原・奈良初期、其から奈良盛時、此に次ぐに奈良末の平安生活の予覚の動いて居る時代の、宮廷並びに世間の内生活の推移と伝統・展開とをこめて言ふのである。純粋の感情表現物の記録と言へない事は固よりだが、内生活の記念とも見るべき歌謡から、生活の諸相を抽象しようとするのである。
君と、女君と、大身《オミ》と、民人との生活が、どう言ふぐあひに歌に張りついて[#「張りついて」に傍点]――と言ふのが最適当だ――残つたかを見たいと思ふ。

       君 皇子尊

記・紀に現れた君は、神自体である時期は、常にくり返され、其が、長くもあつた。万葉においては、既に「神の生活」から次第に遠ざかつて居られる。而も、至上神或は其子として、日のみ子[#「日のみ子」に傍線]と言ふ讃へ詞は用ゐられてゐる。又「神《カム》ながら」と言ふ語も、此時期の初めに著しくなつて来る。だから、直に内容は譬喩表現に近づいて、「神自体」よりも「神さながら」となり、更に「神意によるもの」と言ふ義を生じた。かむから[#「かむから」に傍線]と、殆ど同義に用ゐたものが、万葉には最多くなつてゐる。君の言行に限つて言ふ詞が、自然庶物に内在する神徳の頌辞とさへなつた。
君の居処なる「天の下」――天の直下――及び其附近に居るものは、君の外には神はなかつた。其が、精霊の優勢なものをも、神と称する様になつた為である。さうして、君の本地身たる至上神と、君との関係に血族観を深めて行つて、神格と人格との間に、時代を置いて考へる様になつた。
其でも宮廷詞人の作物には、伝承詞章による発想を守つてゐるものが多い。だから、其章句から直に、当時、神自体観の存在した事の証明は出来ない。君は如何なる威霊をも、鎮斎して内在力とする事が出来るとの信仰が、早く種々の異教を包括する様になつた。が、此初期になると、君の仰ぐべきものに、第一義のものとして仏法が現れ、従来の信仰は、其一分派としての神道を以て称せられる様になつた。君の生活が「神ながら」と言ふ修飾辞を生むだけ、神を離れてゐたからである。聖徳太子を上宮法王と言ひ、又降つて奈良の道鏡にも、其先蹤による称号を与へられたのも、此為であつた。君以外に、信仰上に、最高執務者を設けたのである。女君の配逑なる君のない場合である。
かうした時は多くは、血統最近くて神聖な性格を具へた男子が択ばれて、政務を、宰《ミコトモ》つ。此は、ひつぎの・みこ[#「ひつぎの・みこ」に傍線]と言はれた方々である。通常臣下のみこともち[#「みこともち」に傍線]と区別する為に、略称したみこと[#「みこと」に傍線]を名の末につける。古代から、皇子の中、みこと[#「みこと」に傍線]を以て呼ばれる人と、さうでないのとあるのは、男君・女君に拘らず、最上のみこともち[#「みこともち」に傍線]なる皇子・王だけにつけてゐる。其みこと[#「みこと」に傍線]名が、次第に限られて、執政或は摂政としての皇子だけにつく様になるのが、飛鳥朝の傾向であつた。さうして遂に、一人のみこの・みこと[#「みこの・みこと」に傍線]――ひつぎの・みこ[#「ひつぎの・みこ」に傍線]は数人ある――が、摂政皇太子の義となつた。日並知皇子尊《ヒナメシノミコノミコト》・高市皇子尊《タケチノミコノミコト》などの尊号の、万葉に見える次第である。

       女君 中皇命

皇子尊が、女君の摂政としてあるのは異例で、君と女君と相|双《タグ》ひて在る場合が、普通である。君の為に、信仰上の力を以て助けるのである。君が、教権を遠のいた為である。神と君との中なる尊者なる為の名、なかつ・すめらみこと[#「なかつ・すめらみこと」に傍線]を以て呼ばれる。すめらみこと[#「すめらみこと」に傍線]は、天子に限る用語例ではない。神聖なるみこともち[#「みこともち」に傍線]の義であつて、広義に於ては、皇后・皇太子にも言ふ事が出来たのである。君の闕《か》けて女君ばかり位にある時を、なかつすめらみこと[#「なかつすめらみこと」に傍線]と言ふのではなかつた。古くは唯、皇女或は皇后とのみ書いてゐる事もあるが、飛鳥朝からは明らかに、天皇と申上げてゐる。唯、其君との血の極めて近く、宮廷の神のみこともち[#「みこともち」に傍線]たるに最適当な古代風のなからひ[#「なからひ」に傍点]に在つた女君を、中皇命とよびわけた様であつた。
だから、后の中にも、中皇命・大后・后などの区別があつたのである。皇后として後、天位に上られたのは、皆中天皇だつた方であらう。さうして、君いまさぬ後も、中天皇の資格で居られたのである。さうして見ると、唯男君から男君への、中つぎのすめらみこと[#「すめらみこと」に傍線]と言ふ事は出来ない。此古風が後々まで印象して、平安初期以後長く行はれた「中宮」の尊称の因を開いたのである。さうして、其神事をとり行はれた処が、「中宮院」の名を留めたのである。
中皇命を中皇女とあるのは、誤りではなからう。鏡王女とある――額田女王ではない。其姉の方と見るべきである――のと、同じ記入例である。中[#(ツ)]皇(=たかつすめらみこと)鏡王(=かゞみのおほきみ)など書くと、男帝・男王とまちがへられるからの註で、特別に女性の義を表す字をつけぬ書き方が多かつた為である。額田女王を、万葉に専ら額田王と書くのは、名高くて、男王と誤解する気づかひがなかつたからなのも反証である。
君・女君相双うて「何々宮御宇天皇」の資格があられたのだ。其故、君なき後も、其資格は失せない。御|双方《カタ/\》の中皇命の身に残るのであつた。崗本宮御宇天皇は、舒明・皇極両皇を指すのである。皇極朝を後崗本宮御宇としたのは、後代の考へ方である。さうして、男君|在《いま》さぬ後も、中皇命として居られた。崗本宮・後崗本宮に通じて、中皇命とあるのは、誤伝ではない。御妃《ミメ》の中、他氏他郷の大身の女子なる高級巫女の、結婚した他郷の君の為に、自家の神の威力と示教とを、夫に授けて其国を治めさせる様になつたのが、きさき[#「きさき」に傍線]の古い用語例に入るものらしい。
此に后の字を宛てゝ、古風を没却する事になり、王氏・他氏の女に通じて、きさき[#「きさき」に傍線]或は中宮など言ふ習はしを作つた。古代は、中皇命は王氏の出、きさき[#「きさき」に傍線]は他氏の女子、君の御禊を掌る聖職を以て奉仕したものらしい。常寧殿の后町[#(ノ)]井や、御湯殿の下から出たと言ふ蚶気絵《サキヱ》と言ふ笙《しやう》の伝説などを考へ併せると、愈きさき[#「きさき」に傍線]と御禊との関係が考へられる(民俗学篇第一冊「水の女」参照)。
かうした為来りが、后妃の歌に、水に関する作を多く作り出したと見える。万葉で見ても、巻二の天武天皇・藤原夫人の相聞、天智天皇大喪の時の后・妃・嬪等の歌、又持統八年最勝会の夜の歌など、かうした方面からも見るべきであらう。此が記・紀になると、すせり[#「すせり」に傍線]媛・とよたま[#「とよたま」に傍線]媛・やまとたける[#「やまとたける」に傍線]の命の后王子らの歌・仁徳后の志都《シヅ》歌返歌・大春日皇后の歌など、皆夫君に奉る歌は、水の縁を離れない。殊にすせり[#「すせり」に傍線]媛のは、衣を解き放《サ》ける様を、志都歌返歌は、禊ぎの瀬を求める風を、最後のは、禊ぎと竹と楽器との関係を述べる古詞から出た事を見せてゐる。
万葉の皇族・貴族の相聞・挽歌にも、水の縁の深いのは、水を扱ふ貴族の婦人との唱和が、次第に、さうした発想法を生み出したものと言へよう。

       巫女としての女性

中天皇・斎宮其他、后妃からの女官に到るまですべて、巫女として宮廷の神及び神なる君に仕へてゐた。氏長・国造の家々にも亦、かうした巫女が充ちてゐた。此等の外にも、国々邑々の成女は、すべて巫女たる事が、唯一の資格であつた。だから宮廷に出入した女性たちの生活を、女房・女官などの後世風の考へ方で、単純に見てはならぬ。後宮の職員は、平安初期までも、巫女としての自覚は失はなかつたのだ。叙事詩・民謡に出て来た有名・無名の地方の万葉女も、やはりさうした観念を底に持つてゐた。この事実は、男性が創作詩に踏み入つた時代になつても、変らず見えてゐる。相聞は殊にさうだし、挽歌その他のものにも通じてゐる気分である。
物語歌に見えた真間のてこな[#「てこな」に傍線]・蘆《ノ》屋の海辺村《ウナヒ》処女其他は、前代以来の伝説上の人で、あの種の巫女の人の妻となる事を避けた信仰の印象であつた。村家の娘を訪れる新嘗の夜の情人を仮想した二首の東歌などもある。成女戒を受けた村女の、祭の夜に神を待つた習俗の民謡化したものだ。此夜の客が、神であつて所謂|一夜夫《ヒトヨヅマ》なるものであつた。歌垣・※[#「女+櫂のつくり」、第3水準1−15−93]歌会《カヾヒ》・新室の寿《ホカヒ》の唱和は、民間の歌謡の発達の常なる動力であつた。元は、男方は神として仮装し来り、女方は精霊の代表たる巫女の資格において、これに対抗し、これを迎へ、これに従うたのである。此が相聞歌の起りである事は述べた。
此かけあひ[#「かけあひ」に傍線]行事に、謡ひ勝たう、負かされじとする処から、「女歌」はとりわけ民間に伸びた。神と巫女との対立の本意を忘れた地方も、万葉人以前からあつた。かうした間に、類型が類型のまゝに次第に個性味を帯びて来た。又一方唱和問答の機智的技巧は
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