る場合を仮定して見ると、荷前《ノザキ》貢進の際であらうと考へられる。「東人の荷前《ノザキ》のはこの荷の緒[#「荷の緒」に傍点]にも……」など言ふ様に、都人の注意を惹いたほどの異風をして来たのである。悠紀・主基の国々の威霊なる稲魂が御躬に鎮《フ》る為に、風俗を奏するのを思へば、東人の荷前の初穂を献るに、東ぶり[#「ぶり」に傍線]の歌舞が行はれなかつたと考へるのは、寧不自然である。
奈良朝における東歌は、さうした宮廷の年中行事の結果として集つた歌詞の記録であつたのだらう。十四の方は、雅楽寮などに伝へたものらしい。其を新しくまねたのが、巻二十の東歌である。ちやうど一・二に対して三・四があり、十三に対して十六が出来た様に、やはり家持のした為事であつた。
防人として徴発せられた東人等に、歌を作らせたのは、単純な好奇心からではない。其内容は別の事を言うてゐても、歌を上る事が、宮廷の命に従ふといふ誓ひになつてゐたのである。思ふに、家持の趣味から、出た出来心ではなく、かう言ふ防人歌は、常に徴《メ》されたのであらう。十四の中には、防人歌と記してないものゝ中にも、防人のが多くあらうし、又宮廷に仕へた舎人・使丁等の口ずさみもあるのであらう。十四の東歌の概して二十のものよりも巧なのは、創作意識に囚はれてゐないからである。其中に、真の抒情詩と見做すべきものは一つもないと言へる。叙情詩系統の情史的境遇を仮想した物や、劇的な誇張の情熱的に見えるものばかりである。
東人がなぜ、特別な才能を短歌に持つてゐたか。其は或は、東歌として残つたものが多く、其中から選択せられたものだからかも知れぬ。併し、やはり、短歌の揺籃なる※[#「女+櫂のつくり」、第3水準1−15−93]歌会《カヾヒ》――歌垣の類――や、神の妻訪《ツマド》ひの式などが短歌興立期の最中に、まだ信仰深く行はれて居た為と言ふことも、理由になるであらう。
七 律文における漢文学素地
巻九は、澤瀉さんも言はれた通り、宮廷詩集の古体を準拠として編纂したものらしいが、一・二と違ふ点は、大歌の匂ひの薄いことだ。其替りに、ある階級の色彩が濃く出てゐる。其は巻五と似て、其に古風な味を持たしたものである。万葉の巻々の体裁で見れば、此は、高橋虫麻呂の編纂かとも思はれる。左註によつて、虫麻呂並びに田辺福麻呂の歌集に出てゐる歌を知る事が出来るだけで、本文には二人ともに署名がない。無名の作家の歌として挙げたと見るよりも、編者自身、自作に名を記さなかつたものとすべきであらう。さすれば、やはり、一つの家集で、古来の歌を集めた後に自作を書き添へたのであらう。
但《ただし》、虫麻呂と福麻呂二人共名を記さないのは、どう言ふわけか。或は福麻呂の家集に、とりこまれた虫麻呂の作物の意なのかも知れない。傾向のよく似た作風ではあるが、一つに見て了ふ事も出来ない。尚其他にも、短歌の中には、左註すらないものが多い。此なども、巻九の原本編纂当時に、作者はわかつてゞもゐた様な書き方らしくもある。だが、短歌の方は虫麻呂の歌ではなく、黒人などに近い様だ。
とにかく、万葉集中、一番自由な手記らしい巻である。姓のみ書いたり、名だけ記したりしてゐる。碁檀越と思はれる人を碁師と敬称し、藤原宇合の事をぶつゝけに宇合卿と記したりしてゐる。一処に勤務した官僚たちが、事務的に書きこんだ物かとも考へられる。「或云藤原北卿宅作」など言ふ左註がある処から見ると、宇合の家にあつた集と云ふ事が、万葉集編纂の当時には明らかだつたので、本文は、宇合卿と略記のまゝで、追記には重々しく書いたとも解せられる。何にしても、此巻は、漢文学嗜きな北家藤原氏から出た材料とも言はれる程、大伴家出の物や他の巻々とは面目を異にしてゐる。古代の人の外は、漢文学に造詣ある人々の作物を手記したものらしく思はれる。とにかく、人麻呂以後の宮廷詞人には学者階級の代作歌人めいた人々の歌に、交友の人の作などを、記録したものである様だ。
高橋虫麻呂は、漢学・漢文学に達した学者であつたらしく思はれる人である。巻十六の竹取翁歌の如きは、明らかに、学者の作だといふ事がわかる。虫麻呂の物語歌なども、此人の一方学者であることを示す。私は今、宮廷詞人の発生を説かうと思ふ。先に述べた野中[#(ノ)]川原[#(ノ)]史満の、中大兄太子の愛妃を悼む歌を献つたとあるのは、皇太子の為の代作であらう。
[#ここから2字下げ]
山川に鴛鴦二つ居て たぐひよく たぐへる妹を 誰か率往《ヰニ》けむ(孝徳紀)
幹毎《モトゴト》に花は咲けども、何とかも 愛《ウツク》し妹がまた咲き出来《デコ》ぬ(孝徳紀)
[#ここで字下げ終わり]
帰化人の後の漢文学修養から、此だけ新鮮な作物が出来たのだ。
秦大蔵[#(ノ)]造万里も、帰化人の後である。斉明天皇が、彼をして、孫王を悼む御製を永遠に伝へさせようとせられたと言ふのも、実は、歌を代作せしめて、永く謡へと命ぜられたのであらう。国文脈の伝承古詞模作は、飛鳥朝の末に飛躍した。而もそれは、内部からばかりでは、展開出来なかつた。宣命・祝詞・寿詞の類は勿論、歌詞に到るまでも、新しい表現法を開くには、漢文学の素養深い学者の力を借りて居た。彼等は漢文の文書を草すると共に、国文脈の文章・歌を作つた。彼等の中には新しく帰化した者も居た。其子孫は固より、学者・学僧等が、此為事に当つた。其最初に役所の形をとつたのは、撰善言司であつた。持統天皇三年の事である。文武の代に律令を撰定したのも、此司の人々であつた。律令の外にも、宣命・寿詞《ヨゴト》の新作は、此よごとつくりのつかさ[#「よごとつくりのつかさ」に傍線]の為事であつたらしい。其後、奈良朝になつて、宣命の続々と発せられたのも、この司設立以来の事らしい。此等は皆、古伝承の呪詞の類型をなぞりながら、新しい表現法を拓いて行つたのであつた。国・漢両様の文章を書くのが、万葉時代の文人であつた。懐風藻と万葉集と、共通の作者の多いのも不思議ではない。此等の学者は亦、晋唐小説に習うて、日本の古物語を漢訳した。同時に長歌の形を以て、新しい叙事詩に飜作もした。又宴遊には詩賦と倭歌とを自由に作つた。此は、奈良朝を通じて尚行はれた学者の技能であつた。
藤原宮御井歌・藤原宮役民歌を作つたらしい柿本人麻呂の如きも、唯歌ばかりに精進して居つた者とはきめられない。高市黒人に到つては、露はに漢文学の影響が出て居る。其叙景や、旅思を表すのに、空前の境地を見出したのは、確かに覊旅宴遊の詩賦で洗煉したものゝ現れである。巻九・巻五の、宇合・旅人を繞《めぐ》る人々を見れば、此論が呑みこめるであらう。
八 代作詩
宮廷詞人の多くが、漢文学素養ある者であつたことは、不思議だが事実である。が、同時に、皇族・貴族の作物と伝へるものが、多く代作であらうと言ふ事は、やはり事実らしい。皇極・斉明天皇の作物の如きは、記・紀・万葉、皆、名作ばかりである。而も、先に言つた様な事情を考へると、代作と言ふ事になりさうだ。巻一の宇智の大野の歌の如きも、間人連老をして献らしめた歌と言ふ序が、老の代作なる事を示してゐると見る方がよい。人麻呂に纏つて、代作問題を考へると、殆ど万葉集中の作者のすべてに色々な疑ひが湧く。
[#ここから2字下げ]
(い) 宮廷詩として人麻呂の作と認められてゐる物
(ろ) 人麻呂の作と認められながら、歌の対象たる人物との関係の誤解せられたもの
(は) 他人の歌でありながら、其歌を作らせ、又は実際に謡つた人の作物となつた物
(に) 他人の為に代作した歌から、人麻呂の境遇を推測せられてゐるもの
(ほ) 人麻呂の作でなくて、其作物ときめられたもの
(へ) 人麻呂の作でゐて、民謡になつたもの
[#ここで字下げ終わり]
有名な詞人であり、代作歌人であつた為に、かうした誤解が重《かさな》つて来る。第一期の宮廷詩|即《すなはち》記・紀の大歌は、巫覡の空想と言ふ事を考へに入れると、伝説上の作者は信ぜられぬ。第二期の大歌は万葉集の真作者と伝説上の作者とは別人であるのが大部分である。
かうした代作を役とする宮廷詞人は、何時まで存続したか。それは大歌に新作の詞章を常に用ゐて居た間は、続いたであらう。併し、この意味に於ける新しい大歌の外に、記・紀伝承の固定した大歌の勢力は、残つてゐた。平安朝になると、万葉集の新大歌はすべて姿を消した。さうして此期の大歌は、旧大歌の亡び残りや、新しく加つたものなどがあつて、神事よりも、宮廷の儀式の際に用ゐられる様になつた。
だから、第三期の大歌は、形は旧大歌をついで居ても、内容は、非常に偏して了うてゐる。中には踏歌の淵酔の曲に近いものさへ出来た。第二期の大歌の中、荘重なものは、多分挽歌としての用途を最後として、消え去つたであらう。雅楽の勢力が増して、大歌の領分は狭められて了うたのである。しかも、奈良の盛期に於て、その徴候は既に顕れて居る。大歌類の中、奈良朝末までくり返されたのは、奏寿の賀歌としての短歌である。第三期の大歌の直会《なほらひ》用に固定する原因は、早く茲にあつた。
九 創作態度
創作態度が、宮廷詞人の代作物をこしらへる間に発生するものなる事は、既に納得のいつた事と思ふ。さうして此を整へたのは、漢文学素養だと言うた。万葉集の文学的態度は、宴遊歌及び其拡張なる室寿《ムロホギ》・覊旅の歌にはじまると言うてよい。叙事分子の多い抒情詩から、客観態度を見出すまでには、矚目風物を譬喩化する古くからの発想癖を脱却せねばならなかつた。譬喩する替りに、象徴に近づける努力も積まれた。人間以外に自然界の、詠歎の対象とし認めた事は、極めて自然な展開ではあるが、漢文学の叙景法の影響も考へねばならぬ。叙景に徹せず抒情に戻る表現上の不確実性を、ある点まで截り放つたのは、漢詩からの黙会である。
自然描写をはじめて行うたのは、黒人である。人麻呂には、其に達した物はあつても、まだ意識しての努力ではなかつた。黒人には、又一種の当時としては、進んだ――併し正しくない――文学上の概念があつた。体様の違うた作物を作らうとする和歌式の上の計画もあつたらしい。けれども多くは其に煩されない作物を残した。彼は自然描写をし遂げた。一方又、静かな夜陰の心境を作物の上に見出した。此は彼以前からも兆してゐたものだが、彼に具体化せられて、後|之《これ》をまねぶ者が多くなつた。赤人の「夜のふけゆけば楸《ヒサギ》生ふる……」なども其だ。
此は、古代人の旅泊に寝て、わが魂の静安を欲する時の呪歌の一類から転成したもので、万葉集より後には、類例を見なくなつたものである。
山部赤人は亦、宮廷詞人の一人らしいが、長歌及び抒情短歌は人麻呂をなぞり、叙景詩は黒人を写してゐる。が、其を脱却して、個性を表す様になつた。彼の長所とせられ、古今集以後に影響を与へた、四季雑歌・相聞歌は、自然を人生の一部として変造を加へ、特殊な生活態度を空想する事を、文学態度とする様になつた。彼の態度は正しくないが、ともかく創作意識は、茲まで上つて来た。
大伴旅人は享楽的な分子を交へ、山上憶良は、功利的な目的を露はに出してゐるが、ともかくも、文学として歌を扱うてゐる。高橋虫麻呂などの学者も、さうした態度は明らかになつて来てゐる。けれども、みな長歌には、情熱を持続する事が出来ないでゐる。長歌が文学的燃焼を致さない時代になつてゐたのである。旅人は、外見には、虫麻呂よりも徹底して、漢風をとりこんだ。が、創作動機から見れば、純粋な抒情詩人である。叙事脈の表現は、此人になると跡を絶つて居る。学者らしい臭みは少しもなく、誇張のない情熱の文学として初めて見るべきものである。
其子の家持になると、文学によつて、人間の孤独性を知りかけてゐる。彼の作品には、宮廷詞風の方便として作られたものと、純文学作品とがある。後の者では文学其物よりも、文学のよい感化を見せてゐる。彼の歌で山柿《サンシ》の風を学んだらしい長詩は、如何にも擬古文らしい屈托がある。相聞往来の歌も、特色がない。彼一己の身辺を陳べた
前へ
次へ
全7ページ中3ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング