の系統の語《ことば》の、半分意義あり、半分はないと言つた用法を、類型的にくり返してゐるのは、何故であらう。此は全く、たまふり[#「たまふり」に傍線]の信仰から出来た多くの詞章が、其ふる[#「ふる」に傍線]と言ふ語の俤を、どこかに留めて居るのである。たまふる[#「たまふる」に傍線]を略してふる[#「ふる」に傍線]と言ふ。此ふる[#「ふる」に傍線]と言ふ語は、外来の威霊を、身に、密着せしめると言ふ用語例である。内在魂の游離を防ぎ鎮めると言ふたましづめ[#「たましづめ」に傍線]の信仰以前からあつたのだ。
此まな[#「まな」に傍線]――外来魂――信仰は、国々の君の後なる族長・神主なる国造等の上にもあつた。其国を圧服する威力は、霊の「来りふる」より起るとした。其為の歌舞が、国の霊《タマ》ふり歌及び舞である。此がくにぶり[#「くにぶり」に傍線]と言ふ語の原義である。同時に、ふり[#「ふり」に傍線]は、舞姿或は歌曲を単独にいふ古語でなかつた事が知れよう。霊ふり[#「ふり」に傍線]には、歌謡・舞踏を相伴ふものとして、二つの行為を一つにこめ、ふり[#「ふり」に傍線]の略語が用ゐられる様になつたのは、古代の事である様だ。
此宮廷の直下に在る大和の外の地方は、宮廷直属のあがた[#「あがた」に傍線]に対して、くに[#「くに」に傍線]と言ひ分けてゐた。旧来の地方信仰によつて、其地方の君主としての威力と、民とを失はないでゐる半属国の姿を持ち続けてゐる。さうした服従者の勢力の、尚残つてゐる土地としてのくに[#「くに」に傍線]の観念は、大化の改新の時代まで、抜けきつては居なかつた。かう言ふ国々のまな[#「まな」に傍線]なる威霊を献り、聖躬にふらしめる。と同時に、其国を圧服する権力が、天子に生ずると言ふ信仰が、風俗歌の因となつた。国々の鎮魂歌舞を意味するくにぶり[#「くにぶり」に傍線]の奏上が、同時に服従の誓約式を意味する。かうして、次第に天子の領土は、拡つて行つた。大臣・国造奏賀の後、直会の座で、寿詞の内容と違うた詞章で言ひ直し、寿詞にあつたかも知れない誤りを直し改める大直日神の神徳を予期する神事を行ふ。其時に謡はれたものが、くにぶり[#「くにぶり」に傍線]の根元である。
此が、伝来不明で、後期王朝に始つた様に思はれ易い、和歌会の儀式にもなつたのだ。歌垣と同じ形式が古く行はれてゐたと見えて、歌の唱和があつた。此が歌合せを分化して行つた。歌の本末を、国々から出た采女の類の女官――巫女――と同国出の舎人とがかけ合ひする様になつて来たものと見るが正しいと思ふ。帳内資人など言ふ、貴族の家に賜つた随身の舎人の中にも、壬生忠岑の様な歌人が出た。大体歌合せの召人として武官の加はる風は、遠因があつたのである。王朝末になつて、宮廷仙洞の武官の中から、作家が頻りに頭を出したのも、やはり此舎人が国ぶりの歌舞に加はる旧習から出たとするのが正しいだらう。和歌会は、殆ど神事であつた。此方面になると、歌の唱和や、論争が主となつて、舞は踏歌の方に専ら行ふことになつた。踏歌も、国ぶり演奏も、同時に行はれたものが、男女同演の歌垣から変じた痕跡をふり棄てた。
片哥の様式は、あまりに古風で、単純で、声楽的にも、内容から見ても、変化がない。一・二の句の音脚を増して、一句の音脚を、大して変動を起させずに謡はれる歌詞がかなり古代――記録の年代を信ずれば、神武天皇の高佐士野の唱和に見えてゐる――から発生しかけて居た。其が意識せられて、別殊の新様式となつたのは、飛鳥の都の末から藤原朝へかけての事らしい。其完全な成立を助けたのは、長章の歌曲の末を、くり返して謡ひ乱《ヲサ》める形である。此が段々反歌として、本末の対立部分と明らかに認められ出す機運と時代を一つにした。影響が相互関係で、次第に細やかになつて来た。そこに、今まで久しく無意識にくり返してゐた様式の成立と、声楽要素の変化が急速に来たものらしい。
長曲又は小曲でも、奇数の句で最後の句を反乱すると三句の片哥の形である。結んでゐるものは、其が、対句辞法が盛んに行はれる時代になると、最後の一聯と、結句だけでは不足感が出て来る。そこで、二聯と結句とを、反乱する様になる。人麻呂の長歌などは、殊に其措辞法の上の癖から、結末の五句が、一つの完全な文章になつたのも多いし、なりかけてゐるのも沢山ある。反歌はすでに、一つの様式として認められて居ながら、まだその発生期の俤が、長歌の結びの句に残つて居た。
四 うた[#「うた」に傍線]の時代
記・紀ですら、ふり[#「ふり」に傍線]と言ふべきものを、うた[#「うた」に傍線]に入れて居る。大体大歌と称するものは、其用途から見て、殆どすべてふり[#「ふり」に傍線]に属するものとしてよいのであるが、かうした称呼をとつてゐるのは、ふり[#「ふり」に傍線]よりもうた[#「うた」に傍線]が尊いとの考へからである。他民族出の詞章で、殊に近代に大歌に編入せられたものをのみ、ふり[#「ふり」に傍線]と言ふ様だ。
うた[#「うた」に傍線]を語根にした動詞のうたふ[#「うたふ」に傍線]が、古く分化して、所謂四段のものと、下二段活用のものとになつてゐる。前者は、うた[#「うた」に傍線]を対象としての動作即謡ふである。後者は訴ふの原形となつた。此は謡ふに対する役相であるが、神事を課せられる者には、公式に臨む臣民の動作として、能相風に考へられてゐる。祓《ハラ》ふる・卜《ウラ》ふるの例である。謡ふ事によつて、神又は神人の処置判決を待つ式である。
元来うた[#「うた」に傍線]は、奏上式のふり[#「ふり」に傍線]に対するもので、宣下するものであつた。神の叙事詩の抒情部分を言ふもので、呪詞におけること[#「こと」に傍線]――ことわざ[#「ことわざ」に傍線]――の発達したものである。こと[#「こと」に傍線]の端的で直接なのに対して、うた[#「うた」に傍線]は、幾分婉曲に暗示の効果に富むものらしい。神及び神人の宣るのりと[#「のりと」に傍線]を和らげたもので、儀式で言へば、直会の時の詞である。此を口誦するのは、神の資格に於てするのであつた。此が歌垣の庭の中心行事となつた。相聞唱和の風が盛んになるのも、うた[#「うた」に傍線]にはふり[#「ふり」に傍線]が酬いられねばならなかつたからである。
歌に対するふり[#「ふり」に傍線]の和せられる式の逆になつたのが、うたへ[#「うたへ」に傍線]で、神に問ひかける形をとるのだ。巫女から神に、女から男に、臣から君へまづ言ひかけてゐるのは、多く此部類に入る。出雲振根の「たまもしづし」の歌・三重采女・仁徳記の「つゝきの宮」の歌・赤猪子《アカヰコ》の歌など、うたへ[#「うたへ」に傍線]である。「よごとにも一詞《ヒトコト》、あしきことにも一詞、ことさかの神」と名のつた一言主神のあるのを見れば、のりわけ[#「のりわけ」に傍線]の詞は短かつたものであらう。
五 相聞
二人でかけあはせた本末の片哥を続けて、一体の歌と考へられると、旋頭歌の形式はなりたつ。だから、又、旋頭歌を唱和した様な形式さへ出来てゐた。又、旋頭歌として独立したものでも、自問自答の形をとつてゐるのが普通である。片哥の内に、短歌の胚胎せられてゐる間に、旋頭歌はまづ一つの詩形として認められてゐた。
一体、片哥は、何かの事情で一つ伝つて居るものもあるが、此は正しくないので、必組み唄として二首以上、――問答唱和を忘れたものは――連吟せられたのである。さうしたものゝ中には、片哥も短歌に近いものも、入りまじつてゐた。其で、片哥から短歌の分離する以前には、短歌も組み唄の形で、数首続けて謡はれた。記・紀の大歌に、短歌一首独立したものゝあるのは、此も亦、伝来や記録が完全でなかつたのだ。
短歌も相聞の詞として、一首づゝ対立し、又は数首組んで唱和せられた間に、特に記憶の価値あるものがとり放して口ずさまれる様になつた。さうして一首孤立した短歌も、謡はれ作られする様になつたのである。うたへ[#「うたへ」に傍線]の時の歌は、長曲や、片哥もあつたが、次第に、短歌に近づいて来た様である。殊に万葉集に見られる事実は、男女のちぎり[#「ちぎり」に傍線]の場合に、此形が最多く用ゐられた事である。
男女の初めてのちぎり[#「ちぎり」に傍線]にも、又其後も、神の意思をうたへ[#「うたへ」に傍線]の方式で申して神慮を問ふ。此時は、答へは歌によらず兆しで顕れる。うけひ[#「うけひ」に傍線]の形である。若しうたへ[#「うたへ」に傍線]の詞なる歌に、過ちや偽りのあつた時は反自然・非現実的な現象が、兆しとして目前に現れよ。かう言つた表現をとつた歌が、相聞の歌の中に違うた領域を開いて来た。此うたへ[#「うたへ」に傍線]から出た民間のうた[#「うた」に傍線]が此までの相聞唱和の内容のない、うはついた歌の中に、多少の誠実味を開いて来た。
宮廷のうた[#「うた」に傍線]と称するものゝ外に、かうしたうたへ[#「うたへ」に傍線]の詞句をうた[#「うた」に傍線]と言ふ様になり、相聞或は恋愛歌が、民間のうた[#「うた」に傍線]の本体と考へられる事になつた。さうして其傾向と勢を一つにしたのは、短歌様式の流行であつた。恐らく、藤原の都から奈良京へかけてが、短歌の真に独立した時代と思はれる。かうした短歌全盛の気運は都よりも、寧、地方から動いて来たものと思はれる。
六 東歌
東歌は、奈良朝時代だけのものでも、万葉集限りのものでもなかつた。古今集にも見え、更に降つて平安中期以後にも行はれた。東遊の詞曲及び、風俗歌が其である。此三種の東歌は時代の違ふに連れて、其姿態も、用途も変つて来てゐる。が、其本来の意義は、推定出来る。
東遊を、東国の舞踊と言ふのには、異論はあるまい。此は、東国舞踊の中、特別に発達した地方のものが固定したのに違ひない。恐らく駿河・相摸に跨る地方の神遊びと思はれる。足柄阪の東西では、同じ東人の国も、事情が違つてゐる。此峠から先は、東《アヅマ》の中の東である。だから此み阪の神の向背は、殊に、宮廷にとつては大問題である。足柄の神の歌舞を奏して、宮廷の為の鎮斎とし、神に誓約させる事は、最意義のある事である。東遊「一歌」の詞章には、万葉の「わをかけ山のかづの木の」の句の固定したものが這入つてゐるのを見ても、縁の深さが思はれる。万葉集巻十四を見ても、相摸国歌の足柄歌は、一部類をなしてゐる位である。
平安中期の東遊は、かうした事情で、足柄の神遊びの固定したものらしい。古今集の東歌は、大歌所の歌の一部或は、殆ど同等として扱ひを受けてゐたもの、と考へてよい。此と並んだ……ふり[#「ふり」に傍線]や神遊びの歌と似た神事・儀式の関係はあつたものに違ひない。唯、一つを東遊、一つを東歌と言うたのは、片方が舞踊《アソビ》を主として、声楽方面は東風俗《アヅマフゾク》なる「風俗歌」を分化してゐたからである。風俗歌が短歌を本位とせないのは、東の催馬楽と言つた格にあつたからである。古今集のは、まだ祭儀関係は想像出来るが、万葉の十四の東歌になると、さうした輪廓さへも辿られない。だが、恒例又は臨時に、諸方の風俗の奏上せられた本義を推して見れば、巻十四の蒐集の目的は略《ほぼ》わかる。其中には固より、都からの旅行者の作もあらう。或は東人の為に代作したものもあらう。漫然と東風の歌と感じてとり収めたのもあらう。が、一度は、東人の口に謡はれたものが、大部分であらう。東の国々の風俗《クニブリ》の短歌の伝承久しいものや、近時のものや、他郷の流伝したものや、さうした歌の宮廷で一度奏せられたあづまぶり[#「あづまぶり」に傍線]の詞曲が残つたものらしい。
隼人舞や、国栖の奏などは、宮廷の歴史から離すことの出来ぬ古いものになつてゐる。其他の旧版図の国々のくにぶり[#「くにぶり」に傍線]、就中《なかんづく》悠紀・主基の国俗などゝは、性質が違ふ。新附の叛服常ない国である。そのくにぶり[#「くにぶり」に傍線]は重く扱はねばならぬはずである。其奏せられ
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