る場合を仮定して見ると、荷前《ノザキ》貢進の際であらうと考へられる。「東人の荷前《ノザキ》のはこの荷の緒[#「荷の緒」に傍点]にも……」など言ふ様に、都人の注意を惹いたほどの異風をして来たのである。悠紀・主基の国々の威霊なる稲魂が御躬に鎮《フ》る為に、風俗を奏するのを思へば、東人の荷前の初穂を献るに、東ぶり[#「ぶり」に傍線]の歌舞が行はれなかつたと考へるのは、寧不自然である。
奈良朝における東歌は、さうした宮廷の年中行事の結果として集つた歌詞の記録であつたのだらう。十四の方は、雅楽寮などに伝へたものらしい。其を新しくまねたのが、巻二十の東歌である。ちやうど一・二に対して三・四があり、十三に対して十六が出来た様に、やはり家持のした為事であつた。
防人として徴発せられた東人等に、歌を作らせたのは、単純な好奇心からではない。其内容は別の事を言うてゐても、歌を上る事が、宮廷の命に従ふといふ誓ひになつてゐたのである。思ふに、家持の趣味から、出た出来心ではなく、かう言ふ防人歌は、常に徴《メ》されたのであらう。十四の中には、防人歌と記してないものゝ中にも、防人のが多くあらうし、又宮廷に仕へた舎人・
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