万葉びとの生活
此語は、私が言ひ出して、既に十五年になる。けれども一度も、行き徹つた論を発表しないで来た。私は今は、其輪廓だけでも書き留めておきたい。私の言ふ万葉人なる語は、万葉の中心となつてゐる時代即、飛鳥末から藤原・奈良初期、其から奈良盛時、此に次ぐに奈良末の平安生活の予覚の動いて居る時代の、宮廷並びに世間の内生活の推移と伝統・展開とをこめて言ふのである。純粋の感情表現物の記録と言へない事は固よりだが、内生活の記念とも見るべき歌謡から、生活の諸相を抽象しようとするのである。
君と、女君と、大身《オミ》と、民人との生活が、どう言ふぐあひに歌に張りついて[#「張りついて」に傍点]――と言ふのが最適当だ――残つたかを見たいと思ふ。
君 皇子尊
記・紀に現れた君は、神自体である時期は、常にくり返され、其が、長くもあつた。万葉においては、既に「神の生活」から次第に遠ざかつて居られる。而も、至上神或は其子として、日のみ子[#「日のみ子」に傍線]と言ふ讃へ詞は用ゐられてゐる。又「神《カム》ながら」と言ふ語も、此時期の初めに著しくなつて来る。だから、直に内容は譬喩表現に近づいて、「神自体」よりも「神さながら」となり、更に「神意によるもの」と言ふ義を生じた。かむから[#「かむから」に傍線]と、殆ど同義に用ゐたものが、万葉には最多くなつてゐる。君の言行に限つて言ふ詞が、自然庶物に内在する神徳の頌辞とさへなつた。
君の居処なる「天の下」――天の直下――及び其附近に居るものは、君の外には神はなかつた。其が、精霊の優勢なものをも、神と称する様になつた為である。さうして、君の本地身たる至上神と、君との関係に血族観を深めて行つて、神格と人格との間に、時代を置いて考へる様になつた。
其でも宮廷詞人の作物には、伝承詞章による発想を守つてゐるものが多い。だから、其章句から直に、当時、神自体観の存在した事の証明は出来ない。君は如何なる威霊をも、鎮斎して内在力とする事が出来るとの信仰が、早く種々の異教を包括する様になつた。が、此初期になると、君の仰ぐべきものに、第一義のものとして仏法が現れ、従来の信仰は、其一分派としての神道を以て称せられる様になつた。君の生活が「神ながら」と言ふ修飾辞を生むだけ、神を離れてゐたからである。聖徳太子を上宮法王と言ひ、又降つて奈良の道鏡にも、其先蹤による称号を与へられたのも、此為であつた。君以外に、信仰上に、最高執務者を設けたのである。女君の配逑なる君のない場合である。
かうした時は多くは、血統最近くて神聖な性格を具へた男子が択ばれて、政務を、宰《ミコトモ》つ。此は、ひつぎの・みこ[#「ひつぎの・みこ」に傍線]と言はれた方々である。通常臣下のみこともち[#「みこともち」に傍線]と区別する為に、略称したみこと[#「みこと」に傍線]を名の末につける。古代から、皇子の中、みこと[#「みこと」に傍線]を以て呼ばれる人と、さうでないのとあるのは、男君・女君に拘らず、最上のみこともち[#「みこともち」に傍線]なる皇子・王だけにつけてゐる。其みこと[#「みこと」に傍線]名が、次第に限られて、執政或は摂政としての皇子だけにつく様になるのが、飛鳥朝の傾向であつた。さうして遂に、一人のみこの・みこと[#「みこの・みこと」に傍線]――ひつぎの・みこ[#「ひつぎの・みこ」に傍線]は数人ある――が、摂政皇太子の義となつた。日並知皇子尊《ヒナメシノミコノミコト》・高市皇子尊《タケチノミコノミコト》などの尊号の、万葉に見える次第である。
女君 中皇命
皇子尊が、女君の摂政としてあるのは異例で、君と女君と相|双《タグ》ひて在る場合が、普通である。君の為に、信仰上の力を以て助けるのである。君が、教権を遠のいた為である。神と君との中なる尊者なる為の名、なかつ・すめらみこと[#「なかつ・すめらみこと」に傍線]を以て呼ばれる。すめらみこと[#「すめらみこと」に傍線]は、天子に限る用語例ではない。神聖なるみこともち[#「みこともち」に傍線]の義であつて、広義に於ては、皇后・皇太子にも言ふ事が出来たのである。君の闕《か》けて女君ばかり位にある時を、なかつすめらみこと[#「なかつすめらみこと」に傍線]と言ふのではなかつた。古くは唯、皇女或は皇后とのみ書いてゐる事もあるが、飛鳥朝からは明らかに、天皇と申上げてゐる。唯、其君との血の極めて近く、宮廷の神のみこともち[#「みこともち」に傍線]たるに最適当な古代風のなからひ[#「なからひ」に傍点]に在つた女君を、中皇命とよびわけた様であつた。
だから、后の中にも、中皇命・大后・后などの区別があつたのである。皇后として後、天位に上られたのは、皆中天皇だつた方であらう。さうして、君いまさぬ後も、中天皇
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