は、極めて自然な展開ではあるが、漢文学の叙景法の影響も考へねばならぬ。叙景に徹せず抒情に戻る表現上の不確実性を、ある点まで截り放つたのは、漢詩からの黙会である。
自然描写をはじめて行うたのは、黒人である。人麻呂には、其に達した物はあつても、まだ意識しての努力ではなかつた。黒人には、又一種の当時としては、進んだ――併し正しくない――文学上の概念があつた。体様の違うた作物を作らうとする和歌式の上の計画もあつたらしい。けれども多くは其に煩されない作物を残した。彼は自然描写をし遂げた。一方又、静かな夜陰の心境を作物の上に見出した。此は彼以前からも兆してゐたものだが、彼に具体化せられて、後|之《これ》をまねぶ者が多くなつた。赤人の「夜のふけゆけば楸《ヒサギ》生ふる……」なども其だ。
此は、古代人の旅泊に寝て、わが魂の静安を欲する時の呪歌の一類から転成したもので、万葉集より後には、類例を見なくなつたものである。
山部赤人は亦、宮廷詞人の一人らしいが、長歌及び抒情短歌は人麻呂をなぞり、叙景詩は黒人を写してゐる。が、其を脱却して、個性を表す様になつた。彼の長所とせられ、古今集以後に影響を与へた、四季雑歌・相聞歌は、自然を人生の一部として変造を加へ、特殊な生活態度を空想する事を、文学態度とする様になつた。彼の態度は正しくないが、ともかく創作意識は、茲まで上つて来た。
大伴旅人は享楽的な分子を交へ、山上憶良は、功利的な目的を露はに出してゐるが、ともかくも、文学として歌を扱うてゐる。高橋虫麻呂などの学者も、さうした態度は明らかになつて来てゐる。けれども、みな長歌には、情熱を持続する事が出来ないでゐる。長歌が文学的燃焼を致さない時代になつてゐたのである。旅人は、外見には、虫麻呂よりも徹底して、漢風をとりこんだ。が、創作動機から見れば、純粋な抒情詩人である。叙事脈の表現は、此人になると跡を絶つて居る。学者らしい臭みは少しもなく、誇張のない情熱の文学として初めて見るべきものである。
其子の家持になると、文学によつて、人間の孤独性を知りかけてゐる。彼の作品には、宮廷詞風の方便として作られたものと、純文学作品とがある。後の者では文学其物よりも、文学のよい感化を見せてゐる。彼の歌で山柿《サンシ》の風を学んだらしい長詩は、如何にも擬古文らしい屈托がある。相聞往来の歌も、特色がない。彼一己の身辺を陳べたものには、黒人系統の心境が見える。而も平凡な生活から普遍の寂しさに思ひ到つてゐたらしい処は、近代文学に似てゐる。
一〇 万葉学に一等資料のないこと
こゝまで、私の議論について来て頂いた方々に、私は、かう言ふ信頼を感じて、多分さしつかへがないであらう。私は、何も珍しいことを言ひたがつてゐるのではない。唯平安中期の初めにすでに、万葉の各方面の本旨が誤解せられて居た。或は正しく伝へられて居たにしても、平安末期以後の歌学者の曲解が加つて、長く純粋な元の意義が隠れて了うた事を信じてゐるが故に、従来の、源・藤二流の六条家の直観説を、整頓調節するだけでは、満足出来なかつた事が訣つて貰へる事と考へる。
言はゞ、此集に関しては、真の一等資料と言ふべきものが欠けてゐる。古今序の外は、何れも/\単なる学統の権威を保つ為の衒《てら》ひに過ぎないものであつた。かうした非学術的な後世歌学者の準拠を、我々の準拠とすることは、到底出来ない事なのである。かうした場合、万葉の研究は万葉自身を解剖するか、万葉前後の文壇或は世間の伝承を参酌しての研究が、或は今までの窮塞を通ずる事になるであらう。かうして、私は王朝末以来の学者が行うた仮説以外に、もつと正しいに近い推定を置く事が出来る。さうして又、其が新しい時代の幾多の補助学を負ふ者の権利であると信じてやつて来た事を、快くうけ容れて下さる事と信じる。くり返して言ふ。万葉集研究の徒にとつて迷惑な事は、何よりも、一等資料のない事である。かうした場合、万葉自身の分解に加ふるに、文学史的見解、及び民俗学的推理の業蹟が、大きなものであることを悟らねばならぬ。
私は、万葉人の歌を作り又、伝へた心持ちを考へた。さうして、其が従来の考へ方では、受納しきれない部分の多い事を説いた。或は倖にして、文学意識や、態度の発生した形を覓め得たかも知れない。さうしてうた[#「うた」に傍線]及び、其同義語の本義と転化とを示し得た様にも感じてゐる。さうして或は、宮廷と民間とにおける文学の相違及び其歩みよりの俤を、読者に描いて頂けたかも知れない。さうして尚幾分でも、長い万葉集時代における中心推移を髣髴せしめ得たかも知れぬと、微かな自得を感じてゐる。私は常に、老いた対象を捐てゝゐる。理会に叶ひ難い文章も、若い感受性に充ちた朗らかな胸を予想してかゝつてゐるのである。
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