族長の身辺の恋愛・誓約・病災除却のすべて鎮魂に属する歌曲伝来の久しい考へ方から、此歌集を献ることが、服従を誓ひ、聖寿を賀する事になつたのであらう。
此両巻は、家持が、主上に献つたものと見てよい。が、或は皇太子伝としての位置から見て、其|後《ウシロ》み申した早良《サハラ》太子――或は、他の男女皇子――の為の指導書として上つたものとも、文学史的には考へられる。平安の女房日記や、其歌物語が、宮廷貴族の子女教育に用ゐられたり、男子の手に書かれたものでも、倭名鈔や、口遊などが、修養書に使はれた例の古いものではあるまいか。かうして見れば、以前持つてゐた大伴氏に繋る、両度の疑獄の為に、没収せられた家財の一部として、此等の巻及び巻五並びに、巻十七以下の四巻等が、歌※[#「にんべん+舞」、第4水準2−3−4]所に入つたものとする私の考へ方は近世式な合理観である。一説として採用して下さつた澤瀉さんにはすまないが、潔く撤回して了ふ。東宮坊の資材となつて残つたのが、第二の太子|安殿《アデ》皇子の教材となり、平城天皇となられても、深く浸《シ》みついてゐた「奈良魂」の出所は、此等の巻々などにありさうに思ふ。
巻第五は、族長としての宴遊詞・其他の鎮魂詞といふ意味から出て、文学態度を多くとり入れたものである。憶良の私生活の歌詞の多いのも、此巻が憶良の手で旅人の作物の整理せられたものと見てよい。だから序引の文詞は憶良の作で、歌だけは、恐らく旅人の自作であらう。さうした歌書を献る事が、長上に服従を誓ふと共に、眷顧を乞ふ所以にもなるのであつた。「あがぬしのみ魂たまひて」の歌に、其間の消息が伝つてゐる。さうすると、巻五の体裁や、発想法の上にある矛盾も解けるのである。
巻五は、憶良の申し文とも言ふべき、表に旅人を立て、内に自らを陳べた哀願歌《ウタヘウタ》の集である。此巻などになると、二・三・六其他には隠れた家集の目的が、露骨に出てゐると見てよい。
かうして見ると、三・四には、全体として諷諭鎮魂・暗示教化の目的が見えると言へる。巻五には、魂の分割を請ふ意味が、家集進上の風と絡んでゐる様である。皆形を変へても、鎮魂の目的を含まないものはない。
三 ふり くにぶり うた
万葉や記・紀に「門中《トナカ》のいくりにふれたつ……」「下つ瀬に流れふらふ」「中つ枝に落ちふらはへ」など、ふる[#「ふる」に傍線]
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