汝《ナ》を立ち見送らしめては、行き敢へまじ。妹よ。先だち還れ」。此に近い意だらう。後の者は、上野の民謡故、さぬ[#「さぬ」に傍線]――又、さつ[#「さつ」に傍線]――なる木を言ふ為に、地名の佐野にかけたのだ。茎立《クヽタ》ちは草の若茎と考へられ易いが、木の萌え立ちの心《シン》の末になる部分だらう。其を折つて魂はやす[#「はやす」に傍線]のである。――をる[#「をる」に傍線]はくり返す義か――「旅の人の伝言《ツテゴト》よ。其は此頃来通はず。かうして続くとしても、我は、魂はやし[#「魂はやし」に傍線]によつて、迎への呪ひをして居ようよ」。かう説くのが、ほんとうだらう。すると、
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家場中《ニハナカ》のあすは[#「あすは」に傍線]の神に 木柴《コシバ》さし、我は斎《イハ》はむ。帰り来《ク》までに(巻二十)
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すると、此こしば[#「こしば」に傍線]も、神に奉ると言はぬ処から見ると、霊を対象にしたのだ。あすは[#「あすは」に傍線]の神は竃神だから竃の事にもなる。竃に――或はかまど[#「かまど」に傍線]の前方《カミ》にか――はやしの木柴(?)を立て定めて、旅人我の魂を浄め籠めて置かう。帰り来る時まで――ひきよせられて還り来る様にの意か――此歌、旅行者自身の歌と伝へたのは、誤りであらう。此歌の意も、神を斎《イハ》ふと言ふ様にならないでよく訣《ワカ》る。又、幼稚だが、極めて近代的なと思はれてゐる、
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まつのけの なみたる見れば、いはひとの 我を見おくると、立《タ》たりし もころ(巻二十)
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と言ふのも、道中に松の並み木を見た歌として鑑賞出来ぬ様になる。靡並而有《ナナミタル》ではない様だ。松の木の靡き伏《ナ》すばかり、老い盛え木垂《コダ》るを見るに、松の木の枝の靡き伏す斎戸《イハヒト》に――斎殿か、家人《イヘビト》又は斎人《イハヒビト》か――旅の我を後見《ミオク》る――家に残つた人の遠方から守らうとして、立てたりしはやし[#「はやし」に傍線]の松の、其まゝの姿である。家の魂の鎮斎処の、我が為のはやし[#「はやし」に傍線]の木の勢盛んにある様の俤と信じられる。さすれば、家なる我が魂は、鎮り、栄えて居るのだ。かう言ふ旅人の「枕のあたり忘れかねつも」一類の不安は、旅泊の鎮魂の場合に起り勝ちなのであつた
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