彼をして、孫王を悼む御製を永遠に伝へさせようとせられたと言ふのも、実は、歌を代作せしめて、永く謡へと命ぜられたのであらう。国文脈の伝承古詞模作は、飛鳥朝の末に飛躍した。而もそれは、内部からばかりでは、展開出来なかつた。宣命・祝詞・寿詞の類は勿論、歌詞に到るまでも、新しい表現法を開くには、漢文学の素養深い学者の力を借りて居た。彼等は漢文の文書を草すると共に、国文脈の文章・歌を作つた。彼等の中には新しく帰化した者も居た。其子孫は固より、学者・学僧等が、此為事に当つた。其最初に役所の形をとつたのは、撰善言司であつた。持統天皇三年の事である。文武の代に律令を撰定したのも、此司の人々であつた。律令の外にも、宣命・寿詞《ヨゴト》の新作は、此よごとつくりのつかさ[#「よごとつくりのつかさ」に傍線]の為事であつたらしい。其後、奈良朝になつて、宣命の続々と発せられたのも、この司設立以来の事らしい。此等は皆、古伝承の呪詞の類型をなぞりながら、新しい表現法を拓いて行つたのであつた。国・漢両様の文章を書くのが、万葉時代の文人であつた。懐風藻と万葉集と、共通の作者の多いのも不思議ではない。此等の学者は亦、晋唐小説に習うて、日本の古物語を漢訳した。同時に長歌の形を以て、新しい叙事詩に飜作もした。又宴遊には詩賦と倭歌とを自由に作つた。此は、奈良朝を通じて尚行はれた学者の技能であつた。
藤原宮御井歌・藤原宮役民歌を作つたらしい柿本人麻呂の如きも、唯歌ばかりに精進して居つた者とはきめられない。高市黒人に到つては、露はに漢文学の影響が出て居る。其叙景や、旅思を表すのに、空前の境地を見出したのは、確かに覊旅宴遊の詩賦で洗煉したものゝ現れである。巻九・巻五の、宇合・旅人を繞《めぐ》る人々を見れば、此論が呑みこめるであらう。
八 代作詩
宮廷詞人の多くが、漢文学素養ある者であつたことは、不思議だが事実である。が、同時に、皇族・貴族の作物と伝へるものが、多く代作であらうと言ふ事は、やはり事実らしい。皇極・斉明天皇の作物の如きは、記・紀・万葉、皆、名作ばかりである。而も、先に言つた様な事情を考へると、代作と言ふ事になりさうだ。巻一の宇智の大野の歌の如きも、間人連老をして献らしめた歌と言ふ序が、老の代作なる事を示してゐると見る方がよい。人麻呂に纏つて、代作問題を考へると、殆ど万葉集中の作者のすべてに
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