文には二人ともに署名がない。無名の作家の歌として挙げたと見るよりも、編者自身、自作に名を記さなかつたものとすべきであらう。さすれば、やはり、一つの家集で、古来の歌を集めた後に自作を書き添へたのであらう。
但《ただし》、虫麻呂と福麻呂二人共名を記さないのは、どう言ふわけか。或は福麻呂の家集に、とりこまれた虫麻呂の作物の意なのかも知れない。傾向のよく似た作風ではあるが、一つに見て了ふ事も出来ない。尚其他にも、短歌の中には、左註すらないものが多い。此なども、巻九の原本編纂当時に、作者はわかつてゞもゐた様な書き方らしくもある。だが、短歌の方は虫麻呂の歌ではなく、黒人などに近い様だ。
とにかく、万葉集中、一番自由な手記らしい巻である。姓のみ書いたり、名だけ記したりしてゐる。碁檀越と思はれる人を碁師と敬称し、藤原宇合の事をぶつゝけに宇合卿と記したりしてゐる。一処に勤務した官僚たちが、事務的に書きこんだ物かとも考へられる。「或云藤原北卿宅作」など言ふ左註がある処から見ると、宇合の家にあつた集と云ふ事が、万葉集編纂の当時には明らかだつたので、本文は、宇合卿と略記のまゝで、追記には重々しく書いたとも解せられる。何にしても、此巻は、漢文学嗜きな北家藤原氏から出た材料とも言はれる程、大伴家出の物や他の巻々とは面目を異にしてゐる。古代の人の外は、漢文学に造詣ある人々の作物を手記したものらしく思はれる。とにかく、人麻呂以後の宮廷詞人には学者階級の代作歌人めいた人々の歌に、交友の人の作などを、記録したものである様だ。
高橋虫麻呂は、漢学・漢文学に達した学者であつたらしく思はれる人である。巻十六の竹取翁歌の如きは、明らかに、学者の作だといふ事がわかる。虫麻呂の物語歌なども、此人の一方学者であることを示す。私は今、宮廷詞人の発生を説かうと思ふ。先に述べた野中[#(ノ)]川原[#(ノ)]史満の、中大兄太子の愛妃を悼む歌を献つたとあるのは、皇太子の為の代作であらう。
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山川に鴛鴦二つ居て たぐひよく たぐへる妹を 誰か率往《ヰニ》けむ(孝徳紀)
幹毎《モトゴト》に花は咲けども、何とかも 愛《ウツク》し妹がまた咲き出来《デコ》ぬ(孝徳紀)
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帰化人の後の漢文学修養から、此だけ新鮮な作物が出来たのだ。
秦大蔵[#(ノ)]造万里も、帰化人の後である。斉明天皇が、
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