色々な疑ひが湧く。
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(い) 宮廷詩として人麻呂の作と認められてゐる物
(ろ) 人麻呂の作と認められながら、歌の対象たる人物との関係の誤解せられたもの
(は) 他人の歌でありながら、其歌を作らせ、又は実際に謡つた人の作物となつた物
(に) 他人の為に代作した歌から、人麻呂の境遇を推測せられてゐるもの
(ほ) 人麻呂の作でなくて、其作物ときめられたもの
(へ) 人麻呂の作でゐて、民謡になつたもの
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有名な詞人であり、代作歌人であつた為に、かうした誤解が重《かさな》つて来る。第一期の宮廷詩|即《すなはち》記・紀の大歌は、巫覡の空想と言ふ事を考へに入れると、伝説上の作者は信ぜられぬ。第二期の大歌は万葉集の真作者と伝説上の作者とは別人であるのが大部分である。
かうした代作を役とする宮廷詞人は、何時まで存続したか。それは大歌に新作の詞章を常に用ゐて居た間は、続いたであらう。併し、この意味に於ける新しい大歌の外に、記・紀伝承の固定した大歌の勢力は、残つてゐた。平安朝になると、万葉集の新大歌はすべて姿を消した。さうして此期の大歌は、旧大歌の亡び残りや、新しく加つたものなどがあつて、神事よりも、宮廷の儀式の際に用ゐられる様になつた。
だから、第三期の大歌は、形は旧大歌をついで居ても、内容は、非常に偏して了うてゐる。中には踏歌の淵酔の曲に近いものさへ出来た。第二期の大歌の中、荘重なものは、多分挽歌としての用途を最後として、消え去つたであらう。雅楽の勢力が増して、大歌の領分は狭められて了うたのである。しかも、奈良の盛期に於て、その徴候は既に顕れて居る。大歌類の中、奈良朝末までくり返されたのは、奏寿の賀歌としての短歌である。第三期の大歌の直会《なほらひ》用に固定する原因は、早く茲にあつた。
九 創作態度
創作態度が、宮廷詞人の代作物をこしらへる間に発生するものなる事は、既に納得のいつた事と思ふ。さうして此を整へたのは、漢文学素養だと言うた。万葉集の文学的態度は、宴遊歌及び其拡張なる室寿《ムロホギ》・覊旅の歌にはじまると言うてよい。叙事分子の多い抒情詩から、客観態度を見出すまでには、矚目風物を譬喩化する古くからの発想癖を脱却せねばならなかつた。譬喩する替りに、象徴に近づける努力も積まれた。人間以外に自然界の、詠歎の対象とし認めた事
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